聖女の外典
第七話







「結局こうなりましたのね」
 戦地で開放された一団が一塊にならず、わらわらと虫のように正門から逃げ出す様子を
眺めながら、馬に乗ったマタ・ハリはゆっくりと追いついた。
 その手は途中で拾ったのであろう、ジャンヌが乗っていた馬の手綱を引いている。
「――結局、とはどういった意味ですか、マタ・ハリ」
 惨禍の爪痕の中、泣き佇んでいた聖女は乱暴に涙を拭い、両足に力を込めて凛と立ち、
真っ直ぐにマタ・ハリの目を見て詰問した。
「意味など問う必要などありませんわ……。だって聖女様が考えてる通りですもの」
「っ、貴女は!!」
 マタ・ハリは笑う。
 ジャンヌは激昂する。
「待て!!落ち着け、落ち着くんだジャンヌ」
 今にもマタ・ハリに掴みかかって、そのまま横っ面を殴ってしまいそうな程に激昂した
ジャンヌを、ジークは慌てて腕を掴んで静止する。
「離して下さいジーク君、この人は、この人は!!」
「あら私が何かしまして?」
「何かしたかですって!?えぇ、確かに貴女は何もしなかったのでしょう!?」
「…………」
「貴女は私達が向かう先の道からやって来た。住処を定めない旅芸人のように、渡り歩く
その両手に何も持たずに!!そして貴女は、道の先にあった街を指して既に滅んでると予感
を口にした!!」
 その指摘に頭が急速に回転する。
 マタ・ハリと出会ったのが数日前。
 そして道の先から現れた彼女。
 それが意味することは即ち。
「貴女は抵抗を続ける街を見捨てて、一人安穏と過ごしたのでしょう!!」
 毒婦を糾弾する聖女。
 もしもマタ・ハリの召還タイミングが自分たちと同じ時期であったと仮定するなら、彼
女は召還されてから暫くの時を、この壊れたフランスで過ごしていた事になる。
 その間、サーヴァントマタ・ハリは誰とも出会わなかったのだろうか?何者かと戦った
りしたのだろうか?
 その答えはジャンヌが指摘し、マタ・ハリが認めた通り、出会って捨て置いたである。
「えぇでも、いったいそれの何が問題なのかしら?だってわたくし戦えませんのよ」
 それは尤もな弁論だ。
 サーヴァント、マタ・ハリは、攻撃手段を持たない稀有なサーヴァントである。
 彼女は誰かを殺した史実を持たず、魔術に傾倒したという事実を持たず、何か兵器を開
発したといった逸話を持たない。
 マタ・ハリは諜報に特化しすぎたサーヴァントなのだ。
 彼女が市壁の防衛に尽力した所で、結末は何も変わらなかっただろう。
「それでも抗う事はできた筈です!!貴女なら皆を鼓舞し、敵を退けるだけの士気を与えら
れた筈です」
 本来敵を魅了する為の対人宝具、『陽の眼』を味方に対して使うという裏技じみた真似
をすれば、それは対軍宝具へと変貌し、自軍に対して偽りではあるが無尽蔵な士気を供給
する事が可能だろう。
 サーヴァント、マタ・ハリは戦火にあって『偽りの聖女』として立つ能力がある。
「可能性はあるかもしれませんけど、御破算の可能性は大ですわよ」
「それでも英雄であるならば、その可能性に!!」
 その言葉にマタ・ハリは静かに首を振る。
 それはあり得ないのだと、静かな否定を見せる。
「聖女様?わたくし、貴女のような立派な御方と違って、生憎と英雄ではありませんの。
誰かを救った事も無ければ、歴史に偉業を刻んだ訳でもないですわ。私はただ、世界で最
も有名な女スパイという理由だけで、英霊の末席を汚すただの女ですもの」
 もしも『世界で最も有名なスパイは?』という矛盾に満ちた・・・・・・質問を人類
に投げかけたなら、その答えは00ダブルオーナンバーを持つあの人物か、マタ・ハリと
いう答えが返って来るだろう。
 つまりマタ・ハリは創作された人物を同列に扱われる程に著名なのだ。
 彼女が英霊として存在するのは……いや存在してしまうのは其れだけの理由でしかない。
「それに聖女様はご存知かしら?私が聖杯に召還されたのは、フランスという土地に縁が
あったからに過ぎませんの。――その縁の正体を聖女様は知っていて?」
「…………フランスで活動し、フランスで処刑された」
「えぇ、その通りよ!!フランスの大地は私の血をたっぷりと吸った。そんなものをこれも
何かの縁だと、聖杯ったらまるで女を知らない男のようなトンチキな真似をしでかした
の!!」
 フランスは彼女の故郷ではない。
 いやそもそも、マタ・ハリという名前が、故郷を捨てる決意した女の覚悟の表れだ。
 名を捨て、故郷を捨て、過去を捨てて、生涯を旅する事を誓った女性。
「そんな女が偽りのカリスマを発揮してもどうにもならないでしょう?だって私にその気
はないんですもの。人類皆、貴女の様ではないのですよ?」
 ジャンヌ・ダルクは自身を見捨てたフランスの為に、今再び戦う事を決意した。
 そしてマタ・ハリは自身に嫌疑・・を掛け、処刑したフランスの為に戦う事をしなか
った。
 それは英雄の所業ではないかもしれないが、大半の人間が選択する当然の対応であろう。
むしろ直接手を下さなかった分だけ、彼女は慈悲深いのかもしれない。
「それでも!!それでも人々の祈りは!!悲鳴は!!悲しみは拭わなくてはなりません!!命が、
尊い命がこのように無残に弄ばれていい筈がないのです!!」
 ジャンヌが腕を広げて示す惨状は、躯が散らばる、目を覆いたくなる惨状だ。
 森で狼に襲われた方がまだ自然の営みとしての美しさがあるだろう。ここにはあるのは、
ほんの少しの営みと、あとは残虐な楽しみだけだ。
 人として、コレを許容することは断じて間違っていると聖女は吼える。
 だが。
「もう止しましょうよ。貴女は聖女、私は娼婦。そんな二人が言い争っても、それは聖職
者と食人鬼の議論のように解決を見ませんわ」
 それは哲学的設問。
 つまり答えのない議論。
 聖職者は人を殺すなと言い、食人鬼はそれでは腹が減るという。
 二人はそれと同じだ。
 聖女は敬虔にと言い、娼婦はそれでは腹が減るという。
 聖女と娼婦。
 その議論に結論が得られるのなら、その立場が交わる事ができるのなら、世界はもっと
単純だろう。
「貴女の様な人が……!!」
 聖女が旗を大きく振るう。振るうが、直ぐに旗の石突を血に塗れた石畳にガンっと突き
立てて、己の無力さを嘆くように続く言葉を飲み込んだ。
 そうだ。
 世界を単純に済ますのなら、暴力こそが一番単純だ。
 だがジャンヌはそれを自制する。
 世界はその様でないと信じているからだ。
「仰り辛いでしょうから、私からお尋ねしますけれど、同盟はこれで解消かしら?私、ま
だ何もしていませんけれど」
「…………」
 お互いに道理は通っている。
 救うべきだったというジャンヌの主張は、美しい規範の最たるものであり、それは無駄
に終わると断じたマタ・ハリの主張も、十分に現実を見据えたものである。
 あとはそれを個人の感情として赦せるかどうかである。
「その前に一つ俺から質問だ」
「あら、女の口論に男が口出しすると碌な事になりませんわよ?」
「そういうものなのか……」
「えぇ。お気をつけあそばせ」
「ありがとう。おかげで一つ賢くなった。それから安心してくれ、これは折衷案の提示で
もなく、どちらか一方に肩入れする訳でもない。ただの質問だ」
 馬上で愉しそうに微笑んでいるマタ・ハリに向け、ジークは歩み寄り質問を投げかける。
「此処にあるのは全部男の死体ばかりだ。軽く捜して見たが女、子供の遺体だけは一向に
見当たらない。なぁ、アサシン何か心あたりはないか?」
 その言葉にハッとして、ジャンヌも自らの目で冷静に確認する。
 マタ・ハリはといえば、露骨にそれは聞いて欲しくなかったと、嫌な顔をする。
 鎧を着た兵士の死体はある。男物の服の残骸もある。枯れ木のように折られた老人の死
体もある。だが女子供の死体だけは見当たらない。
 基本的に女子供は奴隷として優秀な商品であるから、こういった惨状下で躯を晒す事は
少ない。だがフランスの抹殺を目論む、狼とか骸骨とか飛竜といったああいった連中が果
たして奴隷を獲るだろうか?
「その質問に対する解答は私がしましょう」
 突如降って湧いた人の声に、その場に居合わせた三騎のサーヴァントは一斉に声のした
方向へ振り向いた。
 その人物はいつの間にかに崩壊しかかった民家の屋根の上に腰掛けていた。
 柔らかな物腰に、優しげな声音。纏った衣服はどこか修道女シスターを連想させる純
白の衣装だが、胸元からヘソの当たりまで大胆に開いており、腿の当たりも深すぎるスリ
ットが入っている。マタ・ハリの衣装は見せつける為のものだが、彼女の服装は明らかに
そういった目論みはないのに、娼婦と同じように扇情的な装いをしている。
「――――聖女、マルタ」
 真名看破のスキルにより、サーヴァントの正体を見破ったジャンヌが、畏敬を受けたよ
うにその名を口にする。
「えぇ、話が早くて助かるわルーラー。ご指摘されたとおり、私がベタニアのマルタよ」
 はて?とジークは疑問符を浮かべる。
 彼はその名を聞いた事がない。聞いたことはないが、『聖女』の称号を冠するのなら、
それはジャンヌの……延いては人類の味方のはずだ。
 だからジークは両手を広げながら友好と好意を示しながら尋ねる。
「では教えてくれ、聖女マルタよ。ここに居たもう半分の人間は何処にいった。行方を知
っているのなら……」
「駄目です、ジーク君!!」
 だが緊迫した声が、歩み寄ろうとするジークを押し留めた。
「駄目です……」
「何が?」
「彼女は……聖女マルタは何者かの手によって狂化が施されています」
 ジークが驚きに目を瞠ってマルタを見つめると、彼女は聖女と評されるのに相応しい笑
顔を浮かべ「えぇ、その通りよ」と肯定した。
「ですからそれ以上近づかないで貰えるかしら。この距離ならまだ耐えられますから」
 真名看破のスキルはサーヴァントの真名を暴くだけに留まらない。その真骨頂はサーヴ
ァントが保有する最大の奇蹟たる宝具を暴くばかりか、所有するスキルまでも看破する。
 そのスキルが、目の前で微笑む聖マルタの危うさを見抜いたのだ。
「一度戦いだしてしまうと、多分止まれない……だからその前にお話しましょう」
 微笑む聖女は、だけどその笑顔の下で狂化の呪いと必死に戦っているのだ。その呪いが
どの程度のものだかは判らない。だがそれでも、ジークは聖女マルタと呼ばれる人物から、
ジャンヌと同じ、底知れない意思の強さを感じた。
「ええっと、何の話だったかしら……。あぁそうそう。たしか女子供は何処にいったかで
したよね。安心しなさい。皆無事に逃げおおせたわ。そこの女が段取って逃がしたの
よ」
 聖女が示すその人物は、勿論マタ・ハリだ。
 なのに彼女はその偉業を、その行いを誇る訳でも誇示するわけでもなく、ただ悔いるよ
うに押し黙っている。
「……何故それを黙っていたんだ?君は多くの人を救ったのだろ」
「…………」
「全ての人は救えなかったかもしれないが、それでも多くを救ったのだろう?それなのに
何故そんな風に君は黙っているんだ」
 情状酌量という言葉を使ってしまえば、それはまるで彼女が罪人であるかのような物言
いになってしまうが、少なくともその行いは隠し立てするような事柄ではなかったはずだ。
「無理よ」
 腰掛けた聖女が言う。
「他ならない、彼女自身が悔いているのだから、彼女は沈黙を続けるわ」
「何故!?」
「いいわ青年。だったらお姉さんが質問してあげる。そうね……、そう、もしも君が密室
に二人っきりで閉じ込められるとしたら、そこの聖女とそちらの踊り子、いったいどちら
と閉じ込められたい?」
 密室で二人っきり。その時、ジャンヌとマタ・ハリそのどちらを人は選ぶだろうか?
「質問の意味が判らない。貴女は個人的趣向を尋ねているのか?」
「ふーん、鈍いんだ。いやそれとも純粋なのかな?」
 聖マルタは感心したように、青年を見下ろす。
「君の好みのタイプ……そんな恥ずかしい事を聞いてるわけじゃないわ。極限状態に置か
れた人間の話をしているの。密室っていうのは、市壁に囲まれたこの町。二人っきりって
いうのは、此処に住んでいた男と女。さあどうする?外には魔物。市に蓄えられた食糧は
刻一刻と減っていって、変わりに恐怖ばかりが積み重なっていく」
 それはかつてこの市が陥った状況。
 援軍は望めず、戦力は消耗し、助かる見込みない。
 そんな極限の状況下。
「ねぇ、人は聖女と踊り子どちらを求めるの?」
「………………まさか」
「そうよ、その通り」
 聖女が悲しそうに呟く。
 まるで彼女はこの町で起きた一部始終を目撃したかのように。
「この町は、死に瀕して内紛を起こした」
 食料に不安を感じ、食料が増える見込みがないのなら、食い扶持を減らせばいい。
 破滅が目と鼻の先に迫っているのなら、破滅的に生きるほうが恐怖を忘れられる。
 誰しもが皆、聖人のように気高く生きられる訳ではないのだ。
「…………あっ」
 話を聞いていたもう一人の聖女も気づく。
 ジャンヌは彼女を『何もしなかった!!』なんて糾弾したが、とんでもない。
 恐らくマタ・ハリは手を尽くしたのだ。
 手を尽くして、尽くして、尽くし果てた。
 一度伝播した狂気を、マタ・ハリという人物には御し切れなかったのだ。
 聖女マルタは尋ねた。
 密室に閉じ込められるなら、聖女と娼婦どちらが良いかと。
 男がジャンヌと閉じ込められたなら、きっと二人は祈って過ごすだろう。
 他愛無い言葉を交わし、信仰に対する議論などをするかもしれない。
 ではマタ・ハリと男が閉じ込められたら?
 それは火を見るより明らかで、質問するだけ愚かというものだ。
 そんなもの、男は倫理と信仰を捨てるに決まってる。
 聖女ならば、信仰の光によって市を救えたかもしれない。
 だが一度たがが外れてしまえば、マタ・ハリにはもうどうしようもない。
 彼女が男のそれを抑えようと奮闘しても、元々誘惑という力しかない女だ。男は益々と
欲求を増大させていったのだろう。
 そんな今にも暴発しそうな危ういものを、彼女が懸命に先延ばしにしようと足掻いても、
足掻けば足掻くほどに、その近い未来は悲惨なものへ変わっていったのだろう。
「そうよ。だから私は逃げ出した。幾人かの良識の残った男達を言いくるめて、町に居た
男達と端から守る気のない沢山の約束を交わして、女子供を裏門から逃がした。そして私
は私に焦がれる全ての男達を捨て置いて、正門から逃げ出したのよ」
 まるで自虐でも披露するかのように、マタ・ハリは言った。
 さぁ、笑って頂戴な、と言わんばかりに。
 救おうと試みても、自体を益々と悪化させていくだけの哀れな道化。
 市壁をグルリと一周、フェロモンを撒き散らしながら、戦場の視線を全て集めて、逃げ
出す民衆とは逆方向へ逃走した。
 敵を惹きつけ、ただ一人、背を向けて敗走した。
「そう、彼女が沈黙をし続けたのは、自分の失敗とジャンヌ・ダルクのフランスを救うと
いう決意が揺らがないように守る為」
 死に瀕した人間が見せる潔さや、高潔さは胸を打つ。
 だが死に瀕した人間が時折発露する醜悪さは、どうしようもなくおぞましいものがある。
 マタ・ハリはだからフランスを再び救おうと志すジャンヌの目に、そういったものが映
らないように心を砕いたのだ。
「ねぇサーヴァント。貴女には人間が醜く見えたのかしら?救われるのに相応しくないと
でも考えたのかしら」
 聖女マルタが罪の女マタ・ハリを、その眼に捉えて詰問する。
 屋根から飛び降り、自ら不用意に近づくなと禁じたその距離を、歩み詰めてくる。
 彼女は理性の限界ギリギリまで進み出て、『ダンッ!!』っと大きく石畳を蹴った。
「舐めんな!!」
 その大きな一喝に、誰もが直ぐ傍に雷が落ちた時のように肩を震わせた。
「人間なんてそんなもんよ!!紀元一年、西暦0年、その頃から一ミリも変わらず、人間な
んて存在、一片たりとも神の奇蹟に相応しくない!!――――人間に失望した?人間に幻滅
した?そんな感情今更過ぎ!!だって人はに捧げて、その罪を購わなければ
ならないほど罪深いのよ?」
 聖女ジャンヌ・ダルクを神の声を聞いた人物とするなら、聖マルタは神と会った人物だ。
 彼女は神と会い、その後その神が民衆によって十字架にかけられ処刑された事を知った。
「それでも聖人わたしたちは諦めない!!人の醜さを嫌という程知って、知らされて、そ
れでも人間という存在を導くことを諦めない。そんなイカレタ連中が聖人ってもんよ」
 啖呵を切るように気風良く捲くし立てたマルタに、マタ・ハリは思わず、率直に、言葉
を選ばず尋ねる。
「…………馬鹿なの?」
 その質問に、聖女は口角を持ち上げ、白い歯を覗かせる聖女らしからぬ笑みで応じた。
「賢くはないかな」
「……ぷっ、うふふふ」
 そのハッキリとして物言いに、マタ・ハリは笑っては失礼だと思いつつも、顔を逸らし
ながら笑ってしまう。
 市場原理に則って言うならば、マタ・ハリのような職業娼婦は賢く、無報酬で行動する
マルタのような人物は賢くない。
「だから忠告しておく。聖女ジャンヌ・ダルクと一緒に行動を続けるつもりなら、覚悟
しておきなさい。アンタが何処の、どんな捻くれたサーヴァントなのか知らないけど、私
たちは見捨ててあげないわよ?」
「あら、いやだ。それは大変ね」
 いつまでも聖女と口論し続けなければならない未来を思い描いて、マタ・ハリは笑う。
 楽しげに、それは大変そうだわ、と笑っている。
「あとそれから後輩!!」
「あ、は、はい!!」
 いきなり後輩などと呼ばれ、ジャンヌが一兵卒のように直立で応答する。
 ジャンヌにしてみれば、聖マルタは聖人として先達である。
 そして何より、聖マルタは聖書の登場人物である。
 敬虔なジャンヌにとっては、話すだけで緊張する相手なのだろう。
「いい、こういったのを相手にするなら、時には思いっきり殴りつける覚悟で挑みなさ
い」
「……」
「案外ね、捻くれた連中って誰かに殴られたくて、拗ねてる場合ってのがあるんだから」
「はい!!」
 そういえばそうでした、と合点するようにジャンヌは応じた。
 ジャンヌは農民の娘という出自の故か、諸々を拳骨一つで解決してしまう癖がある。
 その悪癖は同時に聖マルタに言える事である。彼女もまたフランスの身分制度に照らせ
ば、耕す者……つまりは農民ということになる。
 二人はその出自から信仰、そしてモノの考え方に至るまで似通った存在なのだ。
「さて、戦いましょうか」
 言いたい事は言い切ったと、マルタは手を翳し光を編みあげる。
 聖女マルタがその手に携えるのは、身の丈程もある十字架の杖。
 それを見て咄嗟に三人が身構える。
「戦わなくてはなりませんか?」
 ジャンヌが悲痛な表情で尋ねる。
 彼女にして見れば、聖マルタを相手取るということは心理的抵抗が非常に大きいのだ。
「えぇ、なんせ今の私はサーヴァント。だから、今の内に倒しておきなさい」
 きっと掛けられた狂化の呪いにマルタは耐えられる。だがその身がサーヴァントである
以上、いつ何時令呪が下るかわからず、突然背後から襲い掛かるかしれない。
 だから倒せる時に打倒しておく必要がある。
「待ってください!!その前に貴女のマスターについて知っている事を教えて下さい!!」
「マスター?そんなのジャンヌ・ダルクに決まってるじゃない。私が召還された時に、ジ
ャンヌが居たし、今も彼女から魔力は供給されている。繋がりだって感じるわ」
「しかし、私は此処にいます!!貴方たちのいうジャンヌ・ダルクとは一体誰なのです
か!?」
 聖マルタに狂化を施したのはジャンヌ・ダルクを名乗る人物だという。
 だがこちらにもジャンヌ・ダルクはいる。
 現状このフランスには二人のジャンヌを名乗る人物が居ることになっているのだが……。
「だったら決まってるじゃない。どちらが嘘をついているか、それとも……」
「そこまでだ。ライダー」
 マルタの言葉を遮って、何者かが戦場に飛び降りてくる。
「そんな!!サーヴァントがもう一騎!?」
 新たに現れたサーヴァントは長い髪を靡かせ、風に舞い上がった帽子を着地と同時にキ
ャッチして頭に載せる。
 細く、長い手足をした騎士の装いを纏った可憐な剣士。
 気配を消していた訳ではない。ジャンヌがそれを怠っただけだ。
「あらセイバー。お使いは済んだの?」
「君が貸し出してくれた存在のおかげでね。散り散りに逃げ去った連中は纏めあげたよ」
 聖女を守護するように現れた騎士を見て、ルーラーが真名を言い当てる。
「シュヴァリエ・デオン……」
 名を呼ばれた騎士は、恭しく帽子を手にとり、略式の礼をとって挨拶する。
「お初にお目に掛かかります。フランスの聖女――――白百合の人よ。こうして貴女様に
お目にかかれたというのに、膝も折れぬ無作法を、どうかご容赦下さい」
「あなたも敵なのですね……」
「はい、バーサクの呪いが掛けられています。幸いにしてセイバークラスですので、多少
抵抗レジストはしていますが、そこな聖女より気力の面で劣ります」
 デオンと呼ばれた騎士が、帽子を脱いだまま目を伏せ続けているのは、それが理由なの
だろう。敵を認識してしまえば、直ぐにでも切りかかってしまうのだ。
 そんな状況下にあっても、デオンが礼を尽くそうとするのは、ジャンヌ・ダルクが百合
の紋章が刺繍された旗を持つ人物であり、デオンが軍人であるからだろう。
 ジャンヌにとってマルタがそうであるように、デオンにとってジャンヌ・ダルクという
存在は余りに偉大な存在なのだ。
「時の果て、終わり行く世界で、こうして貴女様にまみえました事を我が喜びとし、今こ
うして貴女様に剣を向けなければならない事を、我が恥とします」
 帽子を目深に被り、流麗な動作で剣を抜き放ち、剣を掲げてデオンは宣誓する。
「哀れみ無用。救いも無用。御前に立ち塞がりますのは、仕えるべき主人を持たない野良
犬でありますれば、一刀の元に切り捨て頂ければ幸いと存じます」
 墓は要らない。
 祈りもいらない。
 デオンはただ造作もなく、切り捨てられ、省みられない事を望む。
「全く、騎士ってのはどうしてこう、戦う前の口上を気にかけるのかしら?」
 マルタが呆れたように言う。
 騎士ではない彼女に、口上の慣わしなど縁遠いものなのだろう。
 その疑問をジャンヌが掬いとって答えた。
「天地神明に懸けて、我が闘争に一片たりとも悖るものはない。これは義の戦いであり、
正しき行いを遂行する者を神が捨て置く筈がない。ならば勝利は神の祝福によって約束さ
れ、この戦いは始まる前から既に決している。――――戦いの前の口上とはそういったも
のだと、かつて私に教えてくれた人がいました」
 それはまるで祈りのような言葉であった。
 闘争を謳う祈りの詩。
 その矛盾に満ちた詩に、だけれどジークは無限の愛しさを感じた。
 ジャンヌにその言葉を教えた人物はきっと、彼女を……神をから遣わされた、約束され
た勝利の少女を、万感の思いで見つめながら教えたのだろう。
 貴女が居られるから、我々は勝利できるのだと。
「なるほどね。確かに言うとおりだわ。私たちに理はなく、人類の抹殺を命ぜられた私た
ちは神の恩寵を望めないもの……」
 マルタは「納得しました」と教えを受けた修道女のように静かに謝意を示し、それか力
強く言った。
「だったら、私の口上はこうよ。私たちに負けたら承知しない!!私を打ち負かして、私に
はあの人の祝福があったのだと証明なさい!!」
 その中で聖女マルタは快活に宣誓する。
 シュヴァリエ・デオンは静かに、己が命運を剣に託す。
「聖杯戦争が裁定者、ルーラーのサーヴァント、ジャンヌ・ダルクがその願い請合いま
す」
 この場に戦いを望む者は誰も居ないのに、戦いだけは避けられないという奇妙な状況。
 一方は敗北を望み、もう一方は相手に勝利を約束する。
「行きます!!」
 そんな奇妙な戦いの幕が切って落とされた。





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