聖女の外典
第五話







 騎乗した二人が野を往く。
 馬を駆るその二人の具足は非常に簡素である。一人は鎧らしき物を身に纏ってはいるが、一人は寸鉄すら帯びていない。
 武装せず、長距離を移動することのみを追求した装い。
 その様子を余人が一目見れば、二人が伝令を預かる身分なのだろうと錯覚するだろう。
 だが誰が知ろう。
 敵に遭遇すれば木っ端と吹き飛びそうなその二人こそ、一騎当千の英雄であり、その二人が往くというのはつまり軍隊の進撃である。
 会敵すればあらゆる軍隊を吹き飛ばす戦力が、高速で移動する。
 それは敵からすれば悪夢だが、相対する二人の敵も又尋常ではない。
 敵は一国を末梢すると宣言し、その国に属した人間を一人残らず抹殺するという狂気の行動を開始し、現在それを遂行中なのである。
 歴史上、そんな妄言を為した狂人は存在しない。
 銃器で武装したあの第三帝国ですら、たった一人種すら殺しきれなかったのだ。
 敵はそれを弓と、刃と、牙で成すと宣言しているのだ。
 それは妄言も甚だしい狂気だ。
 だがもしも本当にそれが成せるのなら、敵の戦力は想定すらできない。
 果たして一騎当千程度のつわもの二人で勝てるのか?
 馬を駆るジャンヌの脳内に、必勝の未来ビジョンは存在しない。
 それでも聖女と呼ばれた哀れな彼女は駆ける事を止めることはないのだろう。
「止まって下さい!!」
 手綱を絞って馬を止めるジャンヌ。
 彼女の制止の声に、ジークも慌てて手綱を引く。そしてジャンヌに遅れること十馬身ほどの距離で停止し、手綱を捌いて彼女の横に付けた。
「どうしたジャンヌ」
「サーヴァントの気配を察知しました」
「サーヴァントを?」
「はい微弱な気配ですが……。いえ微弱と表現するより寧ろこれは……」
 目を閉じて耳を澄ます様に、ルーラーはサーヴァント気配を選別する。
「俺と似たような存在か?」
 ジークが問いかける。
 彼はサーヴァントの心臓を移植された存在だ。
 その存在は最初ルーラーにも上手く感知できなかった。
「分りません。ですが恐らくそれは無いでしょう。サーヴァントが持つ魂の比重は人間のそれを遙かに凌駕します。それが肉体の一部……たとえば指の一本であろうと、人に移植してしまえば、その人間を破壊してしまいます。ジーク君は特別中の特別なんです」
 ジークという存在が成立しているは、その魂が何色でもない無垢であり、その魂の器が人間よりも遙かに強大であった事に起因する。例えばサーヴァントの腕一本、人間に移植しようものなら、それは即座に絶命に至る崩壊を起こすだろう。
 例え被術者と提供者たる英霊が同一人物であるという奇跡的な状況を用意し、さらに一流の術者を用意して施術するという状況を仮定しても、成功率は目も当てられない程に低くなる筈だ。
 よってそのような状況は想定する必要がない。
「では消滅しかかっているのではないか?その気配の主は」
「この距離ではなんとも言えません。なので会いに行ってみましょう!!」
 そう言ってジャンヌはそれが当然であるように、馬をサーヴァントの気配がする方向へ向けた。
「全く、思い切りがいいな君は」
 ジークが嬉しそうに苦笑すると、ジャンヌは「そうですか?」と首を傾げた。
「あぁ、そうだとも」
 かつて彼女はこんな風に、良く解らない自分に会う事を決めたのかと思うと、懐かしさにも似た嬉しさをジークは抱いてしまう。
「罠だった場合はどうするつもりなんだ?」
「脅威を感じる程の気配はありません。たとえ敵対者だったとしても簡単に打倒できる程度です!!」
 ジャンヌは小さく握り拳をつくり、簡単に勝てますと言った。
「少しガッカリだ」
「えっ、え!?今私、ジーク君の不評を買うような事を何か言いましたか?」
「別に……気にしないでくれ」
 少しだけ頬を脹らませてテクテクとジャンヌの示した方向に向け馬を歩ませるジーク。
「あっ、も、もしかして考えなしとか思ってませんか?確かにですね、生前ジルにも貴女は突撃ばかり提案し過ぎだと窘められました!!ですけど私、これでも一応ちゃんと考えてるんですよ!?」
 進むジークの馬の横に慌てて馬を付け言葉を続ける。
「今回の場合だってですね、このサーヴァントの気配を『釣り』にして囲みを作ろうと敵が目論んでたとしても、大抵の囲いは粉砕できるという考えあってのことですし……。あっそれからそれからサーヴァント囲いを形成しようと目論んでも、ルーラー事前に察知できますし!!」
 ワタワタと身振り手振りを交えて懸命に釈明するジャンヌ。
 だがジークが拗ねるのは、ジャンヌが猪突猛進タイプであったことに対してではなく、自身の大切な出会い……あの月光の下での美しき邂逅が、『別段脅威になりそうにもないから会ってみました!!』という意味を含んでいた可能性が出てきたからだ。
 その可能性はジークの男の子な部分を著しく傷つけるのだが、彼自身そういったプライドを上手く理解できていない。
「君って存外脳筋だよな」
「なッ!!」
 絶句するジャンヌを余所に、ジークは上手く処理できない感情を抱えたまま、馬を進めるのだった。


※  ※  ※  ※  ※


「あっ、あの人です。向こうから歩いてくる人影からサーヴァントの気配がします」
「む」
 延々と、脳筋発言を撤回するようジャンヌからの抗議を受けながら歩みを進めてきたジークは、彼女に指で示された方向を注視した。傾き始めた日差しを右手で遮りながら、サーヴァントの視力で遠方を伺ってみるが、輪郭が逆光に辛うじて浮かぶ程度で詳細は分からなかった。
「確かに注意深く意識を向ければ、サーヴァントの気配を感じるが……」
「はい。あちらにしてみれば、こちらはサーヴァント二体の気配を発しています。なのに逃げ出す様子もありません」
「かといって好戦的な雰囲気を纏ってるわけでもないしな」
 馬を止めて思案する二人。
 罠と断じるなら此処で撤退するべきなのだろう。だが他のサーヴァントを圧倒的に凌駕するルーラーの索敵範囲に、他のサーヴァントが感知されている様子はない。
「行きましょう」
 ジャンヌが先行するように馬を進める。
 今分かっている事は、此処で立ち止まっている限り何も分からないという事であった。
 ジークもそれに倣い馬を進める。
 少なくとも向こうから相手を視認できる距離まで接近すれば、ルーラーに与えられた特権スキル真名看破が使える。それを用いれば、相手の来歴、逸話、狂化の有無などが一目で判断がつく。
 この状況下でジャンヌが先行するのはそういった理由である。
 ジークもそれを承知している。
「彼女は……」
 サーヴァント同士の距離が詰まり、ジャンヌのスキル真名看破がその名を暴く。
 だがジャンヌから漏れた声音は疑念の言葉だった。
「どうだった?彼女の天秤はどちらに振れている?」
 相手を認識してなおジャンヌは馬の歩みを緩めなかった為、その距離は双方声を掛けられる位に近づいてしまっている。
「天秤の色は混沌カオス……。属性は中庸……。真名はマタ・ハリです」
「マタ・ハリ?」
 ジークが疑問の声を上げる。
 すると彼らの行く道、その正面から声が掛った。
「まぁ、名乗りを上げる前に指摘してしまうだなんて、なんて情緒のない事をなさる方々なのでしょう!!」
 少年が振り向いたとき、両手を口に当て、驚いた様子でこちらを非難するように声を上げたサーヴァントがそこに立っていた。
 それは落陽を思わせる退廃的な橙色を纏った存在。
 胸元、足元、そして縊れた腰回りと、アピールできる女の部分その全てを絶妙に隠しながら放埓に投げ出し、自身を目撃する全ての男に万遍無く『魅力を振りまくセックスアピール』する女性。
「つまらない野次が飛びましたが、それでも私は私に興味を抱く殿方の為に自らを名乗りましょう。御機嫌よう御両人。私がサーヴァント、マタ・ハリよ」
 裾を持ち上げて足を挑発的に露出し、美しい曲線を描く腰を妖艶に動かして折り曲げ、大きく開けた胸元を馬上から絶妙の角度で窺えるように、彼女は頭を下げて挨拶をした。
「あぁ、丁寧に済まない。俺の名はジーク。そして彼女が……」
「ジーク君!!」
 その声を遮るようにジャンヌが声を上げた。
 そしてジークの腕をとってグイっと引き寄せると、顔を両手で挟みこんで自身に向けさせた。
「ど、どうかしたのか」
「少し私の目を見て下さい」
「いったいどうしたんだ、そんな険しい顔をして……」
「いいですから!!」
 ジャンヌの紫水晶アメジスト色をした瞳がジークの瞳を介して彼を探る。
「私達はサーヴァントです。なのでお互い軽々に名乗るべきではありません。それは分かりますね?」
「だが此方は彼女の名を看破してしまったぞ……」
 それは不公平ではないのか?そうジークが言いかけて「ジーク君!!」とジャンヌの叱責が飛んだ。
「「…………」」
 しばし黙って見つめ合う二人であったが、やがてジャンヌは眉を顰めて彼を話した。
「ふぅ、申し訳ありません。挨拶の途中でしたね」
 そしてジャンヌは馬を下り進み出て、新たなサーヴァントと対峙する。
「私の名はジャンヌ・ダルク。ルーラーというクラスにて現界しています」
「あら、貴女があの有名なジャンヌ・ダルク?」
「えぇ、貴女の評価が如何なもので有るか知る由もありませんが、私がそのジャンヌ・ダルクです」
 一人は珍しい希少な宝石を眺める少女のように、一人は不動を命じられた門番の様に相対する。
「ねぇ、聖女様?私お尋ねしたい事があるのですけどいいかしら?」
「構いません。どうぞ」
「ありがとう」
 身構えるジャンヌに微笑んで、マタ・ハリは問いかける。
「先ほどは彼の紹介を制したのに、向かい合った途端自らの正体を明かしたのは何故?」
「そちらでしたか……」
「えぇ、そちらよ」
 マタ・ハリは微笑む。
 ジャンヌ・ダルクという英霊ほど、他の英霊からその結末が如何な物であったか尋ねられる英霊はいない。だから当然彼女からそれを尋ねられる物だと考えていたジャンヌは、張っていた肩筋を少しだけ弛めて答えた。
「ルーラーのクラスは聖杯の獲得を目指しません。よって真名の秘匿がそれほど重要ではありません。なので求められれば答えます」
「あら、そうだったの」
 マタ・ハリは表情をコロコロと変え、楽しそうにジャンヌ・ダルクと接している。
「ではこちらからも一つ」
「どうぞ」
「彼に魅了をかけるのを止めて頂きたい」
 言葉に力を込めてジャンヌが言った。
 その発言にジークが首をかしげる。
 一流の魔術師である彼に魔術による精神支配を受けた感覚はない。
 だがジャンヌが嘘を言ってる様には思えない。そして何よりこの場には『彼』と代名詞で呼称される人物はジーク以外に居ないため、青年は混乱する。
「うふふふ」
 そんなジークの混乱を笑うように、マタ・ハリは一歩、二歩とステップを踏むようにクルクルと回りながら、ジャンヌから後ずさる。
 そんな素振にジャンヌも無言で手の内に意識を集中する。そこには光の粒子が集い、彼女の手に旗を握らせた。
 その構えは交渉が決裂に至った場合、即座に叩き潰すという意志の現れである。
 だというのに、マタ・ハリはそれでも尚も微笑する。
「返答を……」
 旗を構えるその手に知らず知らず力が籠る。
 距離にして五歩。その距離を開けてマタ・ハリは制止し、聖女ジャンヌ・ダルクを彼女の宝具たる『陽の眼』で見つめる。
「ねぇ、尋ねたいのだけれど。……ジャンヌ、貴女のソレは嫉妬なのかしら?」
「いいえ、違います。単に此処で彼を喪う訳にはいかないだけです」
「嫉妬ではないと……?」
「神に誓って」
 構える少女と、微笑む少女。
 その戦力差は比べるのも馬鹿らしいほどに隔絶している。
 サーヴァントとしてジャンヌ・ダルクの『格』は最上級であり、サーヴァントとしてのマタ・ハリの『格』は最下級のものだ。
 そうでなくとも、マタ・ハリの戦闘力は全サーヴァントの中、群を抜いて劣っている。 だが現実は身構えるのが格上であり、その警戒を笑うのが格下という有様である。
 これはマタ・ハリという個人に対して、ジャンヌ・ダルクという個人の相性が悪いという理由に起因する。
 もしも此度の聖杯がソレを許容したなら、マタ・ハリというサーヴァントに一番相応しいクラスは『ファニーヴァンプ毒婦』という特殊クラスになる。
 ならばこの二人の対立は、聖女と毒婦という構図になる。
 無論そうであっても、ジャンヌに負ける道理はない。
 だが聖女と毒婦という対立の構造に、ジークという要因を絡めて考えるならば、それがどのような結果を導くのか、ジャンヌには予想が付かないのだ。
 マタ・ハリはそんな状況を理解しているのか、敵対行動を取らないサーヴァントを叩き伏せられないというルーラーの個人的性質を逆手にとり、決して戦闘態勢をとらない。
 彼女は寧ろ友好を示す為に両手を広げ、微笑みを浮かべて弁舌を持って聖女に抗する。
「誤解だわ。確かに私は聖女様がその眼で看破された通り、男性を魅了するすべをもっていますけど……。でも刃物を持ってる人間全てが悪人という訳ではないでしょう?」
 マタ・ハリは微笑する。ルーラーというサーヴァントの性質を理解し、それは賢しさからくる無用の嫌疑であると論じる。
 だが無論ジャンヌも弁舌、舌戦においては負けていない。
 彼女は異端審問の質疑において、その悉くを説き伏せたという『記録』を持つ人物だ。
「それは確かに道理です。ですがお互いにサーヴァントという立場をとる以上、魅了の行使は敵対行動と受けとめます」
「それは貴女が後ろに匿っている坊やを、私に略奪されたくないという意味かしら?」
「いいえ個人的感情は持ち出しません。単に戦力が低下するのは避けたいという意味です」
 無論世界の裏側までジークを追ったジャンヌにとって、ジークに抱く特別な感情は確かに存在する。だがこの場でそれを持ち出して語れる程、彼女の愛情は放埓ではない。
「だったら私、いい提案があるの!皆が幸せになれる案よ!!」
 マタ・ハリが手を打ち一切を了解したと言って提案する。
「拝聴します」
 ジャンヌが一応の礼儀として旗を消すと、マタ・ハリは嬉しそうにジャンヌに駆け寄りその手を取って言った。
「私を仲間に入れて下さいな!!これでもこの肉体は一応サーヴァントよ。損はさせないわ!!」
「…………いえ、それは構わないのですが……。ですが良いのですか?私達の目的も知らないまま仲間になって」
「目的?そんなの想像がつくわ。だって貴女はジャンヌ・ダルクなのでしょう?なら貴女はこの狂ったフランスを正す為に戦うはず!!―――違って?」
「その通りですが……」
 人物を見通す眼を持つ陽の眼を持つ女マタ・ハリ
 その眼の精度は、ジャンヌ・ダルクは自らを裏切ったフランスを、今再び救うだろうという事を容易に見抜いた。その力は確かに有用なのだろう。
 だが、だからこそジャンヌは腑に落ちない。
「私たちといっても聖杯は得られませんよ?」
 マタ・ハリというサーヴァントの属性は混沌と中庸である。
 彼女はその性質として極めて個人主義であり、秩序を重んじるタイプではない。
 極論彼女にとってフランスを救済する事によって獲得できる利益は何もないのだ。
「大丈夫!!だってお二人は世界を救う旅をしているのでしょう!?行く先に立ちふさがるのは竜の魔女!!これって最高にスリリングじゃなくて!?」
「あぁ、そういうことでしたか」
 ジャンヌはその言葉に納得を示す。
 マタ・ハリという女性は、元々スリルを好むという性質をもっており、それが高じ過ぎてスパイになったといってもいい。そんな人物にとって、伝説サーヴァントと行動を共にし、世界を救うという目的を共有するという行為は、きっと刺激に満ち溢れているのだろう。
「でしたらこれ以上言う事はありません。貴女を歓迎します、マタ・ハリ」
 握られた手にジャンヌも優しく手を添え、新たな仲間を笑顔で歓迎する。
 マタ・ハリという人物は快楽的かつ享楽的ではあるが、決して悪人ではない。
 何故なら彼女はその生涯において、男を破滅に導いたりはしたが、誰かを殺すという真似はしていないのだから。
「ありがとう嬉しいわ。これで私も大出を振るってあの坊やを誘惑できるというものね」
「………………えっ!?」
「だってそうでしょう?世界を救うという目的を共有している以上、例えあの愛らしい坊やを私の物にしたとしても、戦力の低下にはならないわ」
「えっ、えっ、えっ!?」
「ん、君は俺を誘惑するのか?」
 混乱するジャンヌを余所に、二人の話の行方を黙って見守っていた人物が、自身の話題が上がったことで話に参加してくる。
「えぇそうよ。ジーク……で良かったかしら?聞いたこともない名前だけど、サーヴァントである以上英雄なのでしょう?」
「それは……」
「いいの言わないで。これからじっくりお互いの事を分かち合いましょう」
 そう言って、マタ・ハリは湖畔のバレリーナが跳躍するように軽やかに飛びあがり、騎乗するジークの膝上に収まった。
「さぁ、もっと良く顔を見せて下さいな。そう良い子ね」
 ジークの膝上に座ったマタ・ハリが少年の瞳の中を丹念に覗き込む。
「綺麗で不思議な瞳……。鳩の血色ピジョン・ブラッドのように若く瑞々しい色をしているのに、奥底には雄牛ブルの不屈さが宿ってる」
 ジークの瞳は紅玉ルビーの色をしている。
 それはかつて聖杯へと昇華した伝説のホムンクルスを鋳型に、大量鋳造された出自の証。
 それだけに留まらず、ジークの輝きは、同じように大量生産されたホムンクルスの中で、伝説のゴーレムマイスター、アヴィケブロンが一級品と認めた『千に一つone of thousand』の価値を放っている。
 美しき鳩の血ピジョン・ブラッドは伝説のホムンクルスの血統。
 逞しき雄牛の血潮ビーフ・ブラッドは英雄ジークフリードの心臓から。
「あぁなんて奇跡のような輝き。生前、私が目にしたどんな宝石よりも貴方の瞳は希少よ」
 恐ろしくも、サーヴァントマタ・ハリは宝具まで昇華されたその両の眼をもって、ジークの本質に迫ろうとしている。ジークの出自、ジークの経験。それらを見抜き、そこから彼の本質に触れようと、心の奥底にまで手を伸ばしてくる。
 根底に眠る物……それはサーヴァントで言うなら、霊核と呼称されるかもしれない。
 マタ・ハリはそれを探り、それに触れようとしてくる。
 そこに触れられてしまえば、男は皆彼女の手に堕ちる。
『触れれば即恋慕』
 マタ・ハリの宝具である陽の眼は、魅了を成す過程プロセスでしかない。
 男の本性を暴き、男の本性を刺激するように振舞う。それこそマタ・ハリの本領なのだ。
 そして睦言を囁ける距離にまで迫れれば、対男性という条件においてのみ、マタ・ハリというサーヴァントは無類の強さを発揮する。
 その魅了の威力は、敵対サーヴァントに聖杯を彼女自身に奉じさせるよう命ずる事まで可能だろう。
「だめーーーーーー!!」
「う、うわ!!」
 しかしこの様に横槍が入ってしまえば話は別だ。
 ジークの服の裾を掴み、馬上から引き摺り下ろすという所業。
 そのまま頭から地面に激突するかと思われたジークの頭は、柔らかくふくよかな胸部へと軟着地した。
「あら、嫉妬はないとおっしゃっていましたのに……これはどういった御積りなのかしら?」
 ジークの転倒に巻き込まれて落下するという事態、器用に回避したマタ・ハリは、優雅に馬の背に腰かけながら自身を睨み仰いでいる乱入者を睥睨へいげいする。
「聖女様はそんなにも容易く、自らの内側から生じた言葉を撤回なさるの?」
「ち、違います!!これは嫉妬だとかそういった話ではなくてですね……。もっと違った……そ、そう!!私は彼の保護者なのです!!」
「保護者?」
「はいそうです!!」
 胸に抱えたジークを強く抱き締めたままジャンヌは熱弁を振るう。
「ジーク君は諸事情ありまして、異性関係において重大な欠落を抱えているんです?」
「欠落?」
「ええ、朴念仁といいますか、会う人すべてに好意を示しすぎると言いますか……。ともかくジーク君は誰かに好意を示されると、普通に好意で返してしまうんです!!」
「あらそれは美徳ではなくて?」
 好意に悪意で返答する悪人よりも、悪意に好意で応ずる聖人よりも、好意に好意で応えるというジークの性質は人として、とても尊ぶべきもののはずだ。
「ご指摘の通りですが、貴女が美徳と呼んだジーク君のソレは、単に幼さから生じる無知に過ぎないんです!!端的に言いまして彼は押しに弱いんです」
「まてジャンヌ、それは極論が過ぎる……うぷ」
 反論の声を上げようとした青年の主張は、グイッと引き寄せられた二つの柔らかな谷間に圧迫され封じられた。
「何度私が、あの理性の蒸発した子犬系サーヴァントに迫られたら、ジーク君たら案外コロリと同性愛の道に堕ちてしまうのではないかと危惧したことか……」
「子犬系?」
 誰?といった具合でマタ・ハリが首を傾げるが、ジャンヌが述べる後半の主張は彼女の個人的心労話でしかなく、話の大筋にとって意味のある内容ではない。
「ともかく貴女のように何もかも開けっ広げな女性に、ジーク君は託せません!!」
「あら聖女様は寝所を変える女はお嫌い?ユディト紀とか」
「そういった職業を否定はしませんが、子にそれを推奨する親は居ません。あとユディト紀は教会が公式に外典と認定しました」
「あらつまらない。好きなお話でしたのに」
 そう言って、マタ・ハリは馬のたてがみを撫でながら次の言葉を思案する。
 気持ち良さそうに低く嘶く馬を愛おしそうに撫であげ、その眼を向けて聖女に問うた。
「自由恋愛という言葉に対して、聖女様はいったいどのような考えをお持ちなのかしら?」
「自由という言葉を無軌道に使うのでしたら私はそれに対して否定的です。人は法と倫理と信仰の下という条件下でのみ自由を謳歌すべきなのですから」
「では私はその三つの内の何に抵触するのかしら?」
「貴女が抵触するのではありません。ジーク君の精神が未だ分別を弁える程に成熟していないと言っているんです。子供同士で交わす他愛の無い結婚の約束が、なんら拘束力を持たないのと同じです」
 そこでジャンヌは大きく息を吸い、ハッキリと断言した。
「ジーク君に結婚は未だ早いんです!!」
「ぶっ!!」
「まぁ」
 ジャンヌの発言に二人の人物がそれぞれ違った意味合いの驚きを示す。
 なるほど、確かにキリスト誕生から数えて2000年後の世界でも、『敬謙な』と形容詞がつくプロテスタント家庭であったなら、下世話な話、結婚と性交渉は概ね同じタイミングで行われる。婚前交渉などもっての外だ。
 ましてジャンヌ・ダルクは15世紀の人物であり、聖人である。その認識は酷く当然のものであり、20世紀の人物であるマタ・ハリからすれば、自分に向かって臆面もなくそんな事をのたまうジャンヌの発言は愉快に過ぎる。
 だからマタ・ハリは驚きの声を上げた後、次第に愉快になってしまい、ついに露出したヘソを隠すように両手で押さえ笑いだしてしまった。
 認識と常識の隔絶は基本的には埋めがたいものだ。
 そういった意味で、聖女と娼婦の見解は永遠に交わらない。
 あとはどちらかが折れるのみだ。
「そうね……うふふ……えぇ、そうだわ。婚姻の誓いは神聖ね。私は誓いに敗れた女だけれど、大切にしたい気持ちも十分に理解できるわ。分かりました、彼の手を引いて寝所に連れ込む事はしないわ。それは公平フェアじゃないものね」
 多大な経験を経た麗しの女性と、無垢な少年が同じ空間に居合わせたなら、主導権は確実に女性が握ってしまう。そこで戦う事はマタ・ハリの言うとおり公平ではないだろう。
「でも、だからこそ彼が彼の意志で私の手をとった場合には、今度こそ余計な野次がないと思ってかまわないのでしょう?」
「き、基本的に私はジーク君の意思を尊重していますから……」
 ジャンヌは最大限に有利な条件をマタ・ハリから引き出した。
 性的誘惑という意味においてマタ・ハリ無双の手合いだ。マタ・ハリがそういった舞台においてジャンヌと争うという事は明確に公平フェアではない。だからこれはジャンヌにとってこれは願っても譲歩だ。にもかかわらず、先ほどから変わらずジャンヌが苦い顔をしているのは、マタ・ハリがジークを口説くという行為自体を止められずにいるからだ。
 しかし此処でジャンヌが折れなければ、マタ・ハリはあらゆる手練手管を駆使して、砂上の楼閣よりも脆弱な男の理性を完膚無きまでに粉砕してしまうだろう。
「過激な誘惑と宝具の使用を控えて頂けるのであれば、それ以上私は何もいえないのでしょうね……」
「えぇ、干渉も過ぎれば毒だわ」
 ジークを解放したジャンヌと、馬上からひらりと飛び降りたマタ・ハリは決闘協定のようなものを定め、硬く握手を交わす。
 今度こそ同盟のようなものがなった。
 しかしジャンヌにとって全く予期せぬ方向から横槍が入った。
「待て、待て!!さっきから二人はいったい何の話をしているんだ!!」
「えっ!?いえ、で、ですからね協定のようなものを……」
 ジャンヌがかつての憑依したレティシアと同年代の子供達が使うような、抜駆け防止条例と言えれば早いが、ジャンヌの性格からしてそういった言葉を使うのは不可能に近い。
「違うそこじゃない。俺が知りたいのは誘惑とは一体なんの話なのかという事だ?」
 意味が分からず、ジャンヌは握手を交わしたまま、ジークの眼を見て首を傾げる。
「ジャンヌ、君は俺が魅了の魔術に掛けられていると言っていたが、俺にはさっぱり判らない。この身は元々魔術師だ。魅了チャームの魔術を行使されれば直ぐに察知できる。なのに、二人は細々と魅了チャームの魔術について細々と取り決めをしている」
 ジークはそこで言葉を区切り、本気で分らないといった具合で尋ねた。
「君たちは一体何を話しているんだ?」
「……?」
 ジークの前身は一級品のホムンクルスであり、その中で偶発的に誕生した至高の一品、生まれながらの超一流の魔術師である。当然、魅了チャームの魔術程度であれば抵抗レジストできる。
 だがジークは魅了を受けたという認識自体がないと言う。
「うふふ」
 その響いてきた堪えるような笑い声に、ジャンヌは咄嗟に振り向く。
 声の主は目が合うと、不味いと言った具合で目を逸らすが、誤魔化し切れずに、クツクツとまた笑いだす。
「説明をして頂けますか?」
「キャ!!わかった、分かりましたから手を離してくださいまし!?」
 力強く握られて手の痛みに、笑っていたマタ・ハリが飛びあがる。
「ふう、これが筋力パラメーターの違いなのね……」
 握られた手をパタパタ振りながら答える。
「簡単よ。そのジークって子には、魅了を魅了と認識する力がないのよ」
「…………」
 話が理解できずに茫然とするジャンヌをよそに、マタ・ハリは淡々と言葉を続ける。
「私が扱う魅了の性質は、カリスマや、忠誠心の喚起じゃなくて、もっと単純な……性的欲求の喚起よ。でも彼は不思議なことに内側に性的欲求を抱えていないの。だから私が魅了の力を使っても、そもそも魅了の意味を理解してくれないのよ」
「――性的欲求?あぁ繁殖欲のことだな。それなら別に不思議な事ではないさ。俺は所謂試験管ベイビーという存在だからな。生殖という行為自体に馴染みがないんだ。だから性的衝動というものがどうも上手く理解できない」
 ホムンクルスは生殖による繁殖を念頭に創作されていない。
 繁殖欲とは種の保存への渇望……つまるところ生存欲の親戚のようなものであり、そういった欲求をホムンクルスが抱えていれば、自然自己保全へと繋がってしまう。
 ホムンクルスやゴーレムなどの魔術生命体が人間より圧倒的に優れるのは、保身無き命令の遂行ができる点にある。魔術生命体は、普通の人間ならば生存本能が戦闘を拒否するであろうサーヴァントに突貫し、時間稼ぎの為に磨り潰される事が出来る。
 それは人間には存在しない強みだ。
 その為、ホムンクルスは生存本能に繋がる欲求は製作段階でカットされている。
 ジークはその中で奇跡的に生存本能と呼ぶべきものを覚醒させたが、生まれが生まれの為か、他のホムンクルス同様、自己保身への欲求が酷く薄いのだ。
「あら、そういう事情でしたのね」
 マタ・ハリはジークの説明に納得がいった両手を打ち鳴らした。
「聖女様?そういった訳で我々の協定はどうやら無意味な様子。だって彼には私の魅了が効かないんですもの」
「――――」
 ジャンヌは混乱する。
 どうやらマタ・ハリの方にも最初から魅了の手応えがなかったらしい。
 ならば嫌疑をかけられた時点で、彼女はそれを明示するべきであった筈なのに、このサーヴァントは意図的にそれを隠した事になる。
 ジャンヌにはその理由が分からないのだ。
 今度はその理由を探ろうと、マタ・ハリを見つめれば、彼女は男が蕩けてしまうような妖艶な笑みをニコリと浮かべて言った。
「お訊きになりたいの?」
「説明をしていただけるのであれば」
「私はご承知の通り太陽の眼を持つ女。ですから聖職者の方々とは縁遠かったのですの」
 マタ・ハリは聖職者という言葉を用いて言った。定義は色々と在るのだろうが、基本的に聖職者とは男性を指す言葉だ。女性は聖職者として叙階じょかいされないのだから。
「ですがこうして私は貴女と出会えました。今や世界中の誰もが皆声を揃えて聖人と讃えるジャンヌ・ダルクに。だから試さずにはいられませんの!!訊ねずにはいられませんの!!その魂の在り方を。純真な信仰という奇蹟の在り方を!!」
「貴女は……」
 その言葉を聞いてジャンヌはギリリと奥歯を噛みしめる。
 ジャンヌはかつて、ジャック・ザ・リッパーという殻を被った存在に出会った。その正体は、奇蹟を配給されなかった哀れな子供達の集合体であった。手を差し伸べられず、ドブの中で奇蹟を目撃せずに亡くなった怨念。
 ジャンヌにはそういった者が、この世の……名前を聞いた事もないような国の何処かで泣いているのだろうと想像し、覚悟をしていた。
 だがマタ・ハリはそれとは違う。
 彼女は一般的標準の信仰にあずかり、一般的教義に触れて生きてきた筈だ。
 だがマタ・ハリの困難は全く予期せぬ方向から襲ってきた。
 それは男を誘惑するように成長していく魅惑的な肢体と、男の下心を見抜く太陽の眼という特殊な事情だ。
 彼女に教義を説く聖職者が彼女を見つめる時、マタ・ハリは聖職者の瞳の奥に黒いモノを感じてしまったのだろう。聖職者は神に不犯ふぼんの誓いを立てるが、アジアに居たという宦官のようにモノを落としている訳ではない。
 聖職者が少女マルガレータに綺麗な林檎きせきを差し出し、少女が笑顔でそれを受取ろうと手を伸ばす時、彼女は目の前でその林檎きせきが腐っていくのを感じたのだろう。
 それは潔癖な年頃の少女にとって致命的だ。
 噛みしめる聖体パンは腐っており、口にするキリストの血ワイン西洋酢ビネガーに変じていたのだろう。
 聖職者は男しかいないのに、男の聖職者にはマタ・ハリを導けないという矛盾。
「貴女の眼に、私はどのように映ったのでしょうか……」
 だがマタ・ハリは死後、万人が口を揃えて謳う、聖女の中の聖女に出会った。
 その出会いは遅すぎたが、それでも初めて清く正しい信仰に触れられるという機会に、マタ・ハリの胸は高鳴っている。
「……最高でしたわ」
「最高ですか……?」
「えぇ、最っっ高よ!!だって聖女様ったら、私が誘惑という手段を有してるというだけで、無用な心配事に戸惑われて、彼を誘惑から守ろうと必死にその小さな牙で噛みついてくるんですもの。あぁ、あのお姿は本当に可愛らしかったですわ」
「なッ!!」
 その言葉にジャンヌが絶句し、顔がリンゴの様に赤く染まる。
 マタ・ハリの言う、試すという行為は厳格厳正な儀式のようなものではなく、どちらかと言えば弄ぶといったニュアンスの方が強い。
 その意図に気づけず一々慌てふためいていた聖処女ルーラーは、毒婦ファニーヴァンプの目にはさぞかし愉快な者に映った事だろう。
「あ、貴女という人は……」
「うふふ」
 楽しそうに笑っているマタ・ハリに対し、一瞬激情に身を委ねて本気で噛みついてしまおうかと考えたジャンヌであったが、ピタリと止んだ笑い声に目を向ければ、マタ・ハリが背を向けて両手を後ろで組んだ姿勢で佇んでいた。
「私ってほら、もう素直にお礼を言えるほど子供ではありませんから。嬉しくても、つい人をからかうような事を言ってしまうんですわ」
 中点を過ぎ、少し傾き始めた太陽を仰ぎ見る彼女は、その落陽と同じ退廃の色と相まってそのまま光の中に消えてしまいそうな程、儚げに見える。
「あぁ、でも下心のない純粋な同情って、存外心地良いものなのですね」
「…………」
 マタ・ハリは処刑された。
 世論は彼女に同情することはなく、判事も刑事も彼女に心寄せる事はなかった。
 思えば自身の意志とは無関係に、魅力的であるという理由だけで異性が近付いてきて、結果同性からは嫌われるという単純な構図の人生であった。
 世間は彼女のような女には冷たく、彼女が頼る男はいつもその性根に下心を秘めていた。
 だから自分の信仰の源流を、口を滑らせるように聖女に告解した時、聖女が自らの力不足を嘆くように、苦しむように、悲しむように感情を揺らしてくれた事にマタ・ハリは密かに感動してしまった。
 快楽の為に他人を利用してきたマタ・ハリであったが、今生の命、誰かの為に捧げてみるのも意外と悪くないのかもしれないと密かに思った。
 そんな感傷にも似た感情を振り払うように、マタ・ハリは穴の空いた空に向け叫ぶ。
「あぁ、もう、サーヴァントって最高!!」





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