聖女の外典
第一話







 『外典Apocrypha
 その言葉はキリスト教において『聖典』と認められなかった書物を指す。
 遡ればキリストの誕生以前の……つまり紀元前に書かれた書物や、使徒が記したとされる書物、預言者が書いたとされる物から、誰が書いたとも知れぬ物、それら一切を媒体に関わらず蒐集し、1545年3月15日、世に言う『トレント公会議』によって行われた議論によって誕生した。
 議題は何を正しい『聖典』として取扱い、何を『外典』として扱うかを決めるというものであった。権力と舌戦、過去の教会の行動などとの擦り合わせの結果、今の『聖書』は生まれたのである。
 そして所謂『聖書』が誕生の瞬間に、そこからあぶれた書物群として『外典』が生まれた。
 ありもしない事実を書き、歴史的推敲から激しく逸脱する内容、そして信仰的矛盾、間違いを含んだ書物群。
 それが『外典』である。
 だが外典は一つの事実を含む。
 ありもしない事実、矛盾する歴史、非信仰的な内容、著者を偽り、霊的祝福を得ず書かれた書物。そういった書物は本来『偽書』と侮蔑されるべきものである。
 だが『偽書』という呼称を与えず、『外典』と呼び習わすのは一つの事実がある。
 それは「あったかもしれないが、教会権力機構としては認められない」という事情だ。
 全ては矛盾を生じさせる前に、破棄するべきである。
 完璧である教会機構の権力を傷つけてはならない。
 そういった事情が『外典Apocrypha』という言葉を生んだのだ。
 だから心して欲しい、此処から記す物語は『外典Apocrypha』だ。
 それは確かにあったが、決して認められる事のない物語。
 そうこれは虚ろと消え、この世界に何の痕跡も残さない、聖女の物語だ。



※  ※  ※  ※  ※



 先ず器が成型された。
 次いでその器に魂が吹き込まれる。
 すると器に熱が宿り、心臓が鼓動を開始する。
 鼓動が始まると、そこを基点として透明なガラスで作られたかのような頼りない器に色彩が宿る。それはあたかも、透明な塗料が炉の中で光を顕すのを眺める神秘的光景だ。
 基調は無垢な乙女な白い肌。
 その色はきっと乙女が恋に羞恥すれば、さぞ鮮やかな朱が頬に映えるであろう白。
 毛髪は天上に輝く太陽の光輪色。
 その頭に手を置き、洗礼さずける神父はそれを自らの一生の誇りとするであろう。
 瞳には地上の最も深い所に隠されたアメジストを彼女の為に掘り起こし、それを用いる。
 その瞳に囚われた者は深淵を覗くが、その色合いは恐怖を喚起するものではなく、とても深い慈愛を顕すものだ。
 そして完璧に調和のとれた肢体を、高貴を意味する柔らかな紫色の衣で包み、守護の為の銀の甲冑を与えられる。
 あぁ、歓喜せよフランスよ。
 汝らの為、この国の為、今再び約束の乙女が遣わされた。
 感歎を持ってこれを賛美せよ。
 救いたまえホサナたたえ給えホサナ感謝せよホサナ
 今またジャンヌ・ダルクが再臨された!!
「――――っぅ!!」
 木々のざわめき、天の喜び、大地の歓喜。
 だがそれらから受ける祝福とは裏腹に、本人ジャンヌ・ダルクはともすれば昏倒してしまいそうな頭痛に膝を折り、耐えている。
「此処は……」
 自身がサーヴァントである事は理解している。そして自分が現界した以上、そのクラスが『ルーラー』であり、これは聖杯戦争だというのも判明している。
 だがそれ以上の事が判然としないのだ。
「――アァ!!」
 再度襲いくる鈍痛。聖杯からの接続を感じるのだが、それが酷くノイズ交じりであり、そのノイズが彼女にとって痛みとして再生されるのだ。
「――――これは……グランドオーダー?」
 激しいノイズ交じりの情報本流の中、彼女が読み取れた数少ない情報の一つ、それがグランドオーダーという情報であった。
「何て、変則的。最早聖杯戦争の体を成していない」
 聖杯の獲得を目指すのではなく、獲得された聖杯によって引き起こされた事態の収拾。その恐るべき事態の収束を目指す為、聖杯に組み込まれた最大の切り札、ルーラーをもって事にあたる。
「……それも聖杯の破壊すら考慮されているだなんて」
 聖杯自身が自らの破壊を容認し、その手段としてサーヴァントの召喚を行い、その実行者に聖杯戦争の守りであるルーラーを起用するなどと、いったいどんな状況に陥ればそんな事になるのだろうか。
 ジャンヌが辛うじて読み取れた情報と併せて推察するに、どれだけ楽観的に見積もっても破滅の一歩手前といった具合だ。
 現実的に言うなら既に破滅に向けて身投げ済みといった所だう。
 破滅に向け落下する途中。そこからの解決を目指すには、それこそ背中に翼でも生やさなければ不可能だろう。
 だが。
「では行きますか」
 それでも彼女は立ちあがる。
 手をつき、膝に力をいれ、背筋をのばし、胸を張って力強く立ち上がる。
 そもそもジャンヌ・ダルクの始まりは絶望の中からの起立であった。ならばこの状況は彼女にとって二度目に過ぎない。どんなに詰んでいる状況であろうと、それはジャンヌ・ダルクという英霊にとってそれは諦める理由にはならないのだ。
「フランス、私の祖国」
 大きく息を吸う。
 風が吹き、草原の上を軽やかに走る。
 一陣の風は彼女の頬を撫で、髪を揺らして吹き抜ける。
 そして彼女は万感の思いを込めて呟く。
「あぁ、懐かしい」と。
 時の流れから切り離され、言ってしまえば昨日処刑されたのと遜色ない身の上である彼女だが、それでも懐かしいと呟き、再び祖国の地を踏めた事に感謝を捧げる。
 もしも此処に彼女の名を知る何者かがいれば、驚き、瞠目することだろう。
 その身を裏切り、破滅に追い込んだ祖国を、人はこれ程までの親愛をもって懐かしめるのかと……人は感嘆を持って立ち尽くすだろう。
 鳴呼、之がジャンヌ・ダルクかと。
 彼女は目を閉じ、意識を水のように薄く伸ばそうと試みる。
 ルーラーが有する広大な索敵能力を持ってサーヴァントの探索を行おうというのだ。
 だが彼女は直ぐに驚愕に目を開いた。
 大切な贈り物を草むらに落としてしまった娘のように、彼女は焦りながらすぐ傍に感じた、聞き慣れたあの力強い鼓動を探した。
 それは目算にして彼女から五メートルほどの場所に仰向けで倒れていた。
「あぁ、ジーク君!!」
 透明で儚い印象の美しい青年。
 それは伝承に残る妖精と人の間に生まれるというハーフのようでありながら、その肉体は戦士のそれである。誰もが彼を一目見て気づく。彼は伝説を生む為に生れて来たのだと。 
 塔に幽閉された姫を救い、悪竜を討ち滅ぼす為の無垢で透明な刃。
 そう彼は伝説を打ち立てた英雄ではなく、これから伝説を打ち立てる英雄なのだと。
「ジーク君!!駄目ですしっかりと意識を保って下さい!!」
「ル、ルーラー、あぁ君か」
 ジークと呼ばれた青年が、少女に抱え起こされ、息も絶え絶えに声を発する。
 その存在は余りにも希薄で、今にも夢、幻と消えてしまいそうだ。
「良いですかジーク君!!これは傷ではありません。召喚における肉体の構成がずれているだけです。心臓に意識を向けて下さい。そこから血を通わせるように、自分の肉体を意識するんです。自分の肉体をもっと明確にイメージするんです!!」
「む……ぐっ」
 青年が自らの内側に意識を向けると、そこには力強く鼓動する英雄の心臓が確かに脈動していた。それは青年にとって自己における何よりも強い証しだ。
 英雄から貰った心臓。
 それを認識してしまえば後は彼にとって慣れた作業だ。魔術回路を励起させるように、自らの肉体を隅々まで認識してゆく。自己への埋没は魔術師の基本的所作だ。魔力を魔術回路に流すように、血液を肉体へと流していく。
「すまない、迷惑をかけたようだ」
 もう大丈夫と言って、必死に青年の心臓に胸の上から手を当てていた少女の手を取る。
「いえ、無事ならいいんです」
 ジャンヌは起き上がった青年の手を優しく両手で包み、そして心の底から喜び言った。
「よかった」
 青年はその溢れた笑顔に、心打たれ一瞬固まる。
 そしてやや間を置いて「貴女にはいつも心配をかけているな、俺は」と笑った。
「いいんです。どうやらジーク君は召喚されるのが初めてのようでしたし、この召喚は私でもかつて体験した事のない程の不完全かつ緊急的なものでしたから」
 ジャンヌは立ち上がり、彼の手を引く。
 ジークも彼女に礼を言い立ちあがる。
「「…………」」
 そして両者見つめ合い、しばらくお互いの顔を眺めたまま固まってしまう。
「えっと、ジーク君って英霊として座に登録されてましたっけ?」
「俺としては君が俺を知っている事に驚いているのだが……」
「「…………」」
 再びの沈黙。
 だが二人は思い悩んでいるのではなく、今自分の記憶を参照しているのだ。
 普通自分や自己といったものは連続している。
 我思う故に我があるのではなく、人間とは当たり前に連続している。故にいちいち足を止め、過去を振り返って自己存在を確認する必要はない。自分は自分でしかないのだ。
 だが過去を追想する二人には看過できない記憶が存在した。
「俺はあの聖杯戦争が終わった後、世界の裏側でジャンヌ、君と出会っている」
「はい……。私もあの聖杯戦争の後、貴方の場所まで辿り着きました」
「ではお互いに記憶が連続していると?」
「いえ、この場合は存在自体が連続していると考えるべきです」
 サーヴァントは召喚され、役目を終える度、存在がリセットされる。
 そして記憶は記録へと変換され、座に記録される。
「つまり?」
 ジークと呼ばれた、竜殺し心臓を持つ青年が問う。
 それに聖杯戦争の裁定者である聖女が答える。
「私たち二人は世界の裏側から召喚されたようです……」


※  ※  ※  ※  ※


 ここに新たな外典が生まれた。
 後に邪竜百年戦争と記録される歴史の特異点に、不完全な竜殺しと、本来召喚される筈のない聖女・・・・・・・・・・・・・が召喚された。
 何故彼が召喚されたのか。
 何故、『座』からではなく世界の裏側から召喚されたのか。
 二人はまだその理由をしらない。





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