運命の青
-第十一話-







 混濁する意識。
 人の悪意を窯で煮込み、世界にぶちまけたかのような男の過去は、少女の理想を粉砕する。
 ただ一つの過ち、たった一つの後悔。
 その少女は赤く濁った吸血種特有の瞳に、変わっていく恐怖と、人間としての尊厳を混ぜ合わせた涙を流しながら少年を見上げる。
『オネガイ、ケリィ。――抑えきれなくなる前に――――早く、私を殺して……』
 幸福だった少年に、世界の残酷さなど何も知らなかったただ無垢であった少年に、突然放り投げられた選択という名のナイフ。だが少年はその残酷な願いを受けるにはまだ幼く、そして少女は少年にとって余りに大切で愛しすぎる存在だった。
 記憶は走り出す。
 自らの悲鳴で、懇願する声に耳を塞ぎその場から全力で走り出す。
 愛した少女の血を啜る姿を正視していられなかったのか、それとも誰かに助けを求める為に走り出したのか……。遠い記憶ではそれは定かではない。
 だが少年を今でも苛む後悔は、淡い恋心を抱いた少女を、自分を殺してくれと涙ながらに懇願してきた少女に背を向け、逃げ出してしまったことだ。彼女を救ってくれる奇蹟を求め、彼女を救ってくれるあり得ない魔法を求めて走り出した。
 その願いが如何に愚かであったのか、彼女の願いを振り切って駆け出すという行為がどんな結果を招くのか、少年は地獄を目撃することによって自らの行ないに気付く。
 死に損ないの死徒による島民の捕食。
 教義に従い全ての島民を死徒と断定し殲滅する聖堂教会による虐殺。
 死徒化の秘術を独占しようと島に乗り込み、襲いくる亡者を魔術によって灰に燃やし、ひけらかした魔術を秘匿するため、目撃者を殺す魔術協会。
 少年はその地獄をただなす術なく眺めるだけだ。
 少女を救う奇跡を求めた少年の心は壊れ始め、ついにこの地獄を終わらせる正義の味方を求めるようになった。始まってしまった地獄に幕を引く存在。都合よく現れ、生き残った全ての人間を救ってくれる英雄のような存在。
 だがそれも直に夢物語だと気付く。そんな在りもしない都合のいいものに縋ってしまった為に、あの時彼女を殺してあげる事が出来なかった所為で、この地獄は釜の中から吹き上がった。
 だから、少年は……。
「――僕が殺るよ」
 この地獄に颯爽と現れたナタリア・カミンスキーにそう告げた。
 誰かに頼るのではなく、誰かに願うのではなく、自分が正義の味方になるのだと、選択という名の拳銃を今度こそ自らの意思で掴み取る。
『ぱん』
 少年がその道を引き返せなくなった時に響いたのは、そんな軽い音だった。
 子供が贖罪の為に親を殺す。引き金と心を切り離すとそれは、一種の才能だと女性は教えてくれた。
 彼女からフリーランスの魔術師としての生き方を学び、効率的に対象を仕留める技術を学んだ。
 共に地獄の淵を行脚し、幾人もの外道を討ち取った。
 それでも少年の心は晴れず、少女を、シャーレイを殺せなかったという後悔は付き纏う。
 幾人救えばこの贖罪は終わるのか?何時になったら平和は訪れるのか?
 頭を過ぎる疑問を押し込め、青年は進み続ける。そんな疑問を抱く権利など自分は有していないとでも言うように。ただ黙々と死線を渡り歩き、多くの人を救うという機能だけを発揮しながら。
 人を救うという願いに憑りつかれた少年は、遂に大切な家族を殺してでも見知らぬ誰かを救うという道を選択するまでに至ってしまった。
 心が凍り付いていればよかったと思う。ひたすら無感動に、ただ無機質な機械として私情の無い天秤の守り手であれたなら、まだ救いはあっただろう。
 だが少年は何時までも少女を殺せなかったあの日を後悔しつづけ、母が乗った旅客機を撃墜した時の感触を今でも夢に見る。
 衛宮切嗣は人間として壊れる事ができないまま、そんな地獄を渡り歩き続けたのだ・
 誰かが悪いわけではない。
 きっかけは本当に些細な運命の悪戯だ。
 偶々日取りが悪く雨が降ってしまうように、少年の人生にも取り返しの付かない雨が降った。
 本当にただそれだけの事―――。
 だからそんな風に生きてきてしまったそいつの事が頭にきて、ただ一言だけ文句を……・



※  ※  ※  ※  ※  ※



「ッ、シャーレイ?」
 咳こむような声を上げて意識を取り戻す青子。口をついて出た名前が果たして誰のものであるか、今の彼女にはもう分からなかった。夢とはすべからくそういった物であり、目が覚めれば崩れ落ちる砂上の楼閣と同じだ。崩れた砂の記憶ビジョンは二度と同じ形には組み上がらない。
「青子!!」
 そんな寝起き特有の益体のない思考に身を置く彼女を呼びかける声。
 疲れた安堵の表情を浮かべてウェイバーが、顔を覗き込んでくる。
 二、三度瞼を瞬かせて、青子はゆっくりと周囲の状況を確認する。そこは最近になって少し見慣れた風景、マッケンジー邸であった。彼女はベッドに寝かしつけられて、額には氷嚢ひょうのうが乗っている。
「――――何があったの、ウェイバー」
 鬱陶しいと額に乗せられた氷嚢ひょうのうをどけた青子は、まぁ何となく予測はついてるけどね、と言って目を閉じ経緯の説明を求める。
「それはこっちの台詞だ。いったいあの場所で何があったんだよ?」
「――――ウェイバー、私を見つけて此処まで連れて来るまでの経緯を話して」
 ウェイバーの言葉に軽い違和感を覚えた青子は、今まで自分を看病してくれていたであろう少年の疑問には答えず、少し険しい口調で尋ねた。
「あ、あぁ。ライダーとセイバーが戦い始めてからしばらくして、青子のいる方から凄い音と光り、あとそれから魔力の流れが見えたんだ。それであれはただ事じゃないって事で、ライダーとセイバーは一時休戦して森の奥へ向かったんだ。そしたらセイバーのマスターと、青子が倒れていたんだ」
「セイバーのマスターは生きていた?」
「息はあったよ。目立った外傷はなかった。だけど二人とも怪我は無いのに倒れているから、セイバーとの戦いは一時休戦にして帰ってきたんだ」
「そう……」
 ウェイバーの説明は半ば予想通りであったとはいえ、何故青子は自身が倒れていたのか疑問であった。てっきりセイバーかライダーの宝具によって、気絶させられたと考えていたからだ。そうでなければこうしてベッドに横たわっている理由が説明できない。
「もしかして抑止力が働いた……?でもそうなると私は殺されないとおかしいし……。いやでも私だってアレを完全に使いこなしてる訳じゃないんだから、暴走した時に何が起こるなんて判る訳ないか……」
 どうして彼女と衛宮切嗣は生き残ったのか?それをいくら考えてみても、結論はでそうにない。青子自身、衛宮切嗣の時間を盗もうとして、そこで何か叫びたくなるような過去を見てしまったとまでしか覚えていないのだ。
「なぁ、いったいあそこで何があったんだよ。辺の木は倒れてるし、地面は無茶苦茶に抉れてる。どういう事をしたらあんな惨状になるんだよ」
「さぁ?私にも分からないわよ。でもとにかく私は失敗した。その結果が惨状だというんなら、きっとそういう事をしたんでしょ」
「そんな、無責任な……」
 突き放す青子の口調。その言葉に不満げな声を上げるウェイバー。
 青子は暫らく沈黙してから、何気ない粗相を窘めるように言った。
「別にアンタを信用してない訳じゃないわ。でもウェイバーが聞きたがっているのって、蒼崎の魔法に関る事象なの。そんなの話せるわけ無いでしょ?」
 魔術師は己が秘儀を明かさない。それは全ての魔術にとっての常識であり、逆を言えば魔術師は他の魔術師に尋ねてはならないという意味になる。
 そんな中で青子は『蒼崎の魔法に関する事象』とまで伝えてくれた。それはあの場所で青子が魔法を使ったという事を示しており、かつ青子が魔法を習得しているという余りに重大な告白だ。信用していないなんてとんでもない。青子は十分にウェイバーを信用しているから、そこまで打ち明けてくれたのだ。そして図らずも、青子にそんな話をさせてしまったウェイバーは自らの軽率さに恥じ入るばかりだ。
「そ、そうだ。何か食べたい物とかないか?直に買ってくるけど」
「大丈夫……。それより、私どれくらい気を失ってた?」
「えっと三時間位だけど」
「そう……」
 迂闊な失点を取り戻そうと声をかけてみたが、青子は短く言葉を交わすと、再び沈黙してしまう。
 ベッドに横たわったまま動こうとしない青子と、二人っきりの部屋の中、所在なさげに部屋で佇んでいるウェイバー。青子の様子から察するに、彼にはもう看病するという名目がない。つまり現在彼は二人っきりという状況下で用も無いのに、異性と同じ部屋で過しているのだ。その事柄を意識せず自然体で過ごすには、ウェイバーはあらゆる意味で経験が足りていない。
「あの、用があったら呼んで……。下の階にいるから」
 故にウェイバーは戦略的撤退を選択する。之が彼のサーヴァントであったのなら、ベッドに横たわったまま動こうとしない女性を放置せず、征服王の名に相応しい行動を取ったかもしれない。だが少年は戦争をしに冬木市まで来たのだ。魔具は準備しても、口説き文句と、女の肩を抱く度量は準備していないのだ。
「だったらもう少しだけ傍に居て」
 部屋を出て行こうとするウェイバーを引き止める青子の声。少年はドアノブを掴んだまま硬直し、必死にその言葉の意味を考える。
 男と女が同じ部屋に居る状況で、かつ女がベッドに寝たままもう少しだけ傍に居てと頼んでくる。
 それはつまり、そういう事なのか!?
 緊張と激しく響く心臓の鼓動を悟られないように、ウェイバーは平静を装って振り向く。
 だがそれは本当に少年の勘違いであった。
「そこに座ってるだけでいいから」
 仰向けで、目を閉じたままベッドのすぐ脇を指差す青子。
 その目には一筋の涙が流れていた。
 青子はその涙を衛宮切嗣の記憶に由来するものだと知っている。
 だが彼女の中には彼の記憶は一切存在せず、どうして涙を流しているのか皆目検討が付かない。
 ようするに何を食べたかは覚えていないけど、舌には何かとても苦いものを味わった感覚が残ってる。
 その曖昧な感触が、今の彼女に残された衛宮切嗣の過去であった。
 そしてその記憶にない過去の痛みを癒す為、青子の魂は他者の存在を求めた。
「少しだけまた眠るわ。その間だけそこに居て。あと寝顔を見たら殴るから」
 青子はそんな彼女の事情を語らず、ウェイバーも涙の訳を詮索しない。
 その時間はライダーが河の水を汲んで戻ってくるまで続いた。





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