運命の青
  -第一話-







 少年にとって、それは順風満帆な旅路であるはずだった。
 旅を始める決意こそ、意趣返しを目論んだものであったが、契機となった聖遺物は、正に少年にとって宝の地図であった。
 宝の地図を盗み出し、航路ルールを頭に叩き込み、いざ旅立った一人の少年。
 まだ道程のスタートラインに立ったばかりなのに、右手に現れた聖痕を見て少年の興奮はかつて無い高まりを見せる。
『いける!!いけるぞ!!』
 少年の脳内には自分の論文をにべもなく一笑した、あのいけ好かない講師を屈服させ、大手を振って倫敦の時計塔に凱旋する輝かしい未来が、花畑のように広がっていた。
 そして少年はその輝かしい未来へ向け、生きた三羽の鶏を入手した帰り道だった。
 鶏に目隠しを施して強制的に眠らせ、三羽の鶏を買い物籠に放り込んだまま、大手を振るって道を歩く少年の姿は、凱旋する様を予行演習しているかのようだ。
「ねぇ、それまだ生きているわよね?」
 だが航海が往々にしてそうであるように、夢を追う少年の前に彼女は嵐として現れた。
「うぇ!?」
 少年の前に突如現れた女性は、木の皮で編まれた籠を指差して少年に微笑みかける。
「な、なんだよいきなり」
「だから、その鶏まだ生きてるわよね?何に使うの・・・
 たじろぐ少年。
 長い髪に、意思の強そうな目鼻立ち。白いダウンジャケットに身を包みながら話しかけてくる日本人らしき彼女は、少年の目から見ても顔が赤くなるほどに美人だ。
「な、何に使おうと、アンタには関係ないだろ!」
 自分と殆ど年の変わらない美人に、旅先でいきなり声をかけられる。それは初心とチェリーを紅茶に混ぜて作ったかのような少年の人生において、思考を混乱させるには十分な出来事であった。
 およそ初対面の女性に対する言葉ではない。突き放し過ぎである。
 だが、女性は少年のそんな態度を気にも止めず、スッと目を細めて静かに言った。
「そう、やっぱり貴方魔術師なんだ」
 その言葉にぞくりと少年の背筋が泡立つ。
 鶏は食べる物である。断じて使う・・存在ではない。
 だが少年は彼女が発したミスリードに見事に引っ掛かり、鶏を使うと言ってしまった。生きた鶏を捌く習慣のない日本で、鶏を使うことがあるとすれば、それは魔術に纏わる何かでしかないのだ。
 最初から疑って掛かっていた女性と、魔術師であることを疑われているだなんて露にも思わなかった少年。それは少年にとって決定的に取り返しのつかない事態だ。
 ワンシングルの魔術、目を合わせるだけで発動する魔眼、それらが次の瞬間にも少年の身を襲うだろう。
   日中だからと油断していた!?
   人目があるから襲っては来ないと高をくくっていた!?
 少年の脳内は思考だけが無常にも高速で回転している。
 ゆっくりと目の前の女が腕を持ち上げ、少年に向かって手を伸ばす。
 だというのに、少年は魔術回路すら起動させられない。
 その理由は何てことは無い。それが座学で魔術を学んできた少年の限界だったのだ。
 近づいてくる死神の腕。
 少年―――否、ウェイバー・ベルベットは、こんな所で自分の聖杯戦争は終わってしまうのかと、その呆気なさに立ち尽くして―――。
「お腹減ってるの、何かご馳走してくれない?」
 ポンと軽く叩かれた肩に、彼ウェイバー・ベルベットはヘナヘナと腰を抜かして、道の真ん中で俗にいう女の子座りを披露してしまった。


※  ※  ※  ※  ※


「やっぱり、日本人はご飯と味噌汁ですね」
「ごめんなさいね、せっかく訪ねてきてくださったのにこんなもてなししかできなくて」
「いえお構いなく。私もちょうど帰国したので、彼の様子はどんなものなのかと、窺っただけですから」
「それで、ええっと、まだ名前を聞いてなかったわね。ほらウェイバーちゃん、私たちに彼女のこと紹介して」
 そう言われて、家に住む老婦人に水を向けられたウェイバーは、ハタと逃避していた現実と向かい合った。そうして現実を向かいあったものの、彼には今の状況が上手く理解できず、またその質問に答える答えを持っていなかった。
 ウェイバーはむしろ自分が紹介して欲しい位だったのだ。
 道でいきなり声をかけられ、ご馳走してくれと言ってきた女。鶏を連れたまま外食するのは不可能だったので、やむなく彼は、自分が催眠を掛けた老人宅に彼女を案内した。
 そして彼は、それまでの道すがら彼女の名前を聞けないでいたのだ。
 そんな事情もあってか、上手く答えることのできないウェイバーの様子をいぶかしむ老婦人。「ウェイバーちゃん?」などと不安げな声を上げている。
「あぁ彼はシャイですからね。突然訪ねて来たことを怒っているんですよ。―――挨拶が遅れました、私、蒼崎青子と言います」
 手に持った椀と箸を置いて、居住いを正した蒼崎青子と名乗る女性は、きっちりと優等生のように老夫婦に頭を下げた。
「これはどうもご丁寧に」
「まぁまぁ、青子さんと仰るのね」
 老人は頭を下げて青子を歓待し、老婦人はポンと手を叩いて嬉しそうに笑っている。
「それで、蒼崎さん。うちのウェイバーとはどういったご関係なのですかな」
 まるで見合いの席を取り持つ仲人のような顔をして、老人が青子に問いかける。老婦人はもう顔をキラキラと輝かせて、可愛い孫が突如家に招きいれたガールフレンドを期待する眼差しで見詰めている。
「いえ、彼とは……」「あ、あ、あ、蒼崎だってーーー!!!!」
 友達ですよと言おうとして、ウェイバー・ベルベットの悲鳴じみた最大級の絶叫に。青子は耳を押さえて言葉を噤んだ。
「ちょ、うるさいわよウェイバーくん」
 老夫婦の会話の中から、ウェイバーの名前を拝借して、君付けで呼び始める青子。
 彼女は椅子を倒して立ち上がったウェイバーを、非難する目付きで睨んだ。
「だ、だって、蒼崎って……」
 知らず知らずの内にゴクリと唾を飲み込んでしまう。
 魔術に生きる者にとって蒼崎の名前は特別な意味を持つ。
 それは勿論魔法の蒼崎という意味だが、それ以上に倫敦の時計塔に在学している学生のウェイバー・ベルベットにとっては、必要以上に触れてはいけない火薬庫としてのイメージの方が遥かに強い。
 それも全て蒼崎橙子という、時計塔から『赤』の称号を贈られた稀代の人形師に拠る所が大きい。彼と蒼崎橙子は専攻する学科が違うものの、全ての生徒と教師が口を揃えて、必要以上にあの爆弾に触れるなという教えに従ってきた一般生徒なのである。
 魔法に到達した家系という威光より、蒼崎の機嫌を損ねて、一生を蒼崎の作ったドールハウスで過ごすか、敵に回ってブチ殺されるかという二択問題の方が、同じ学び舎で過ごす学生にとっては重要問題なのである。
「チッ、姉貴か」
 そんなウェイバーの様子を見て取って、青子が舌打ちをする。
 彼女は元々、自分の名前を隠すような性格をしていないが、蒼崎と名乗っただけで此処まで露骨に嫌な顔をされると、その原因を拵えてくれた姉に対して恨みが涌いてくる。
「ちょっと彼と二人っきりで話したいんで借りますね。あと彼の部屋は何処でしょう」
「あ、あぁ階段を上って一番奥の部屋だよ」
 突然怯えだした孫と、急に機嫌の悪くなったガールフレンドに戸惑いながら、老人はウェイバーの部屋の位置を教える。
 青子はそれに、「ありがとうございます」と答えて席を立ち、有無を言わさずウェイバーの襟首を掴んで引き摺っていった。
「あ、あ、うわぁ〜〜〜」
 下手に逆らえず、かといって湧き上がる恐怖を押し殺しきれない少年は、情けない声をあげて、二階の部屋へと連行されてしまった。
 残された老夫婦はただ只顔を見合わせるばかりだ。
「どうしちゃったのかしら、青子さん」
 心配そうに居間から二階へと続く階段を見上げる婦人。
「なに心配することはない。大方彼女は蒼崎と呼ばれるのを嫌っていたのに、ウェイバーがうっかり呼んでしまったのが原因だろう」
 心配するだけ野暮だと言いたげに、座ったまま妻を嗜める老人
「あら、それはどうして?」
「若いうちは色々あるということだ。多分ウェイバーは、青子さんのお姉さんと付き合っていたんだろう。それで青子さんは蒼崎と呼ばれるのを嫌っとるんじゃないかな」
「まぁ、あの子ったら。留学先でそんな大それた事を」
 口元を押さえつつ、だけれど目を輝かせる老婦人の顔は、何時までも恋の話しに胸を躍らせる女性特有の喜びに満ちている。
 そして、老人も若さ故の暴走を懐かしむように、だけれど保護者として嗜めなくてはならんといった表情で、腕を組んで目を閉じ、これからの事を考えていた。
「どうだろう母さん、今夜あたり、青子さんも交えてウェイバーにこれからの事をどうすのか聞いてみるというのは」
「あら、それじゃぁご馳走を作らないといけないわね!」
 こうして孫思いの老夫婦は、魔術による催眠をかけるまでもなく、奇跡的な勘違いによって、先ほどのやり取りを若さ故の痴情の縺れとして納得したのだった。





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