FATE/EXTRA STORY5
CCC







 ―――女の話をしよう。
 罪に塗れた女の話を……。



 女は生まれながらに、多くの未来を約束されていた。
 煉瓦で造られた巨大な城(ドールハウス)。窓から見える地平の彼方まで続く領地(箱庭)
 そして領地で小麦を育て、小麦を()む、家畜、家畜、家畜、家畜の群れ。
 女はそれらの一切を取り仕切る、家畜の(ぬし)として、その将来を約束されていた。

 女はごく当たり前に振る舞う。
 家畜を吊るし、血を抜いて、肉を捌き、肉片を市場に卸す牧場主のように……。
 牧場の(あるじ)は活きのいい若い()領地()の中から連れ出して、美味しい所だけ摘み食い。
 残酷に思える所業も、なんのその。
 そいつは経営者に与えられた特権贅沢だ。
 だが摘み食いのツケはいつかは支払うもの……。
 暴食であれば不健康を……。
 横領に当たるのであれば黄金で……。
 それが世の常、人の理。
 なのに女は支払いを、その命で求められた……。
『分からない!!分からない!!分からない!!』
 牢獄とは名ばかりの石棺(せきかん)の中、女は喚く。
 信仰守ってたおやかに……、聖書(おしえ)の通りに生きてきました。
 なのにどうして私は罰せられるの?
 どうして私は生きたまま棺に放られるの?
 家畜を殺しただけなのに……。
“どうして私だけがこんな目に!!”。
 女は……いや少女は泣き喚く。
 何も知らなかった無知な娘。だれも教えてくれなかった哀れな少女。
 彼女の間違い。少女の疑問。
 人と家畜のその違い……。
 だが哀れなるかな、『人と家畜の違い(ソイツ)』は聖書にも書かれていない。
 故に三年間、獄中で死するその時まで、女は生涯その疑問の答えに辿りつけなかった。
 これが女の人生、その顛末。


『では語ろう。下らぬ女のその人生。これは丸々一本前置きだ』
在りのままに書く(ノンフィクション)など、馬鹿にもできる仕事だ!!』
『これは無茶に付き合わせてしまった代償に……作品を凡作に貶めてくれた意趣返しに、俺が偶々破いて持っていた『手持ちの白紙(かみ)』に、殴り書いた走り書きだ』
『是は断固として俺の創作だ。故に俺は救いの物語など断固として書かん!!』
『だからこれは、罪と呪の物語だ』
『犯した罪によって、永遠に呪われ続ける物語だ』



FATE/EXTRA STORY5



 その(せかい)は楽園だった。
 宇宙は宇宙という箱で閉じ、地球は地球という箱で閉じている。
 ならばこの閉じた(せかい)も、外側とそう変ったものではないのかもしれないと、少女はふと考え至って足を止めた。
 見上げれば眩く暖かな日の光。
 正面を向けば地平の彼方まで延びる草原。
 歩きやすいように整えられた草のハゲた茶色い道。
 そういえば自分は日課の散策の途中だったと思いだし、少女は(ランス)(ステッキ)代りに調子よく振り回しながら草原を歩く。
「ラン〜ララ〜ランララ〜ララララララ〜、ラン〜ララ〜ランララ〜ララララララ〜」
 天上の美声。
 絶世の歌声。
 なのだけれど、気持ち良く謡う彼女の声は、壊滅的に音程という物を理解していない。
 いやむしろ、竜の喉による比類なき美声を発揮しながら、ここまでの音痴を晒すなら、それは生まれ持ったセンスで音程を、真逆の方向で理解しているのでは無いかと疑いたくなる。
 陽気(ようき)は揚々。気分は上々。
 その絶世の音痴は益々とボリュームアップしていき、手にした(ランス)(ステッキ)に、そして(ステッキ)は遂に指揮棒(タクト)にまでなる。
 太陽という名のライトを浴びながら、風撫でる草原で、思う存分歌声を響かせる。
 少女の気分は正に歌姫(ディーヴァ)
 世界は彼女歌を拝聴する為にあり、世界というステージは彼女の為だけに用意された。
 そして歌のクライマックス!!
 竜の(こえ)は遠く離れた山の峰々にまで届き、世界に響きわたる。
 何の比喩なく世界を震撼(しんかん)させた少女は、両手を広げ目を閉じ、歌の終り、その余韻に浸る。浮かぶのは彼女を褒め称える万雷の喝采であり、その歌声に涙する聴衆の姿である。
「……………………」
 だが聞こえるのは頬を撫でる優しい風。
 目に映るのは暖かくその身を照らす太陽だけである。
「ふん。ちょっと疲れちゃったわね」
 そう言って、少女は手にした指揮棒(タクト)(ランス)として正しく認識し、それを地面に力いっぱい突き立てた。
 ゴゴゴ、などと音を立てて地面から、舞台装置のように迫り上がる彼女の居城。
 現われた、月でのその城の姿を知る者がいれば、その変質にさぞ驚いた事だろう。
 スピーカー等の魔改造は顕在なれど、血を塗ったように黒かった城壁は、史実通り白壁に戻り、管理が大変だという理由から、その規模はだいぶ大人しめになっていた。
「ちょっと早いけどバスの時間にしましょ」
 鼻を啜るように感情を啜って、少女は城外に新たに作ったギリシャ風の露天風呂に足を向ける。それは、少女が此処に来てから作った代物だった。
 屋根は無く、見上げれば太陽を望めるシュチュエーション。
 城は縮小してしまったけれど、どうせなら趣味は大きくとプールのように大きく作ってしまった野外風呂。小屋の中で衣服を脱いで、タオルを片手に湯船につかる。
「ん〜、気持ちっいい!!」
 手足を思う存分伸ばして、体を休める。
「ユニットバスしか使ってこなかったけれど、たっぷりのお湯の露天風呂もいいものね」
 竜の尻尾が彼女の上機嫌に同意するように、パシャパシャと水面を叩いた。あたかも魚が水面を跳ねているかのような音だ。
「ラーラーラーラー、ラーラーラーラーラララララーララ」
 広大な自然と、開放的な浴場。
 世界に光が降り注ぎ、草木は新緑(しんりょく)の色づく。
 世界を行き渡る風は、響く少女の歌声を旅の道連れに、何処までも彼方へ飛んで行く。
「ラーラーラーラー、ラーラーラーラーラララっ!!」
 不意に、上機嫌に歌っていた筈の少女が音を止める。
「――――――!!」
 胸の痛みを堪えるように、深夜に突然訳もなく襲ってくる虚無感に苛まれるように、必死に、必死に、こんな所で壊れては駄目だと自責(じせき)する。
 その痛みは一過性のものだったのか、やがて少女は平静を取り戻し、浴場のヘリに背中を預けて空を見上げる。
「ホント、貴女は天才ね凛……」
 不意に零れた独白は、此処に居ない誰かを称賛するものだった。
 頭上に浮かぶ丸い発光体。それに付随して行われる暖かな熱処理。
 天体のような周期処理ではなく、不規則な設定を施されたソレは、目には見えない、透明で不可視の圧力壁として表現され、世界を優しく撫でる。
 正確無比の物理演算によって揺れる草木も、旧時代的なドット欠けなど起こさず、目を凝らせば細胞の一片まで作りこまれれた、究極の域にあるモデリングだ。
「ホント、天才よ……」
 歩き、散策し、その目で新しく観測する限り、無限にランダム生成され続ける世界。
 つまりそこは何処までも広がり続ける、彼女だけの彼女の為に作られた牢獄なのだ。
 牢獄には彼女の他に生き物はいない。
 地を駆ける獣もいなければ、海を泳ぐ魚も、空を舞う鳥もいない。
 なぜなら此処には彼女(メス)しかおらず、結果世界の……無秩序に回る生命の営み、その半分しか再現できないのだ。つまりこの世界にはロジックの手本になる、対になる存在がかけていた。だから生える植物は、感情のないただの植物なのだ。
 だが牢獄とは本来そういうもので、だからこの世界()は正しく牢獄なのだ……。
「うっうう〜ッッ!!」
 ムーンセルオートマトンの神の如き演算能力と、超一流の霊子ハッカーが遠坂凛が作り出した、現実と何の遜色もない永遠の牢獄。
 この造りなら、三年……いや、五年は耐えられるだろう。
「うっぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!」
 少女を取り囲む何もかもが、現実と遜色なく……現実以上でも以下でもない、完璧再現されたこの世界。
 それでも、少女は、この世界の何もかもが造られた虚構であると知っている。
 この世界が作り物であると、創造主(トオサカリン)から保証されてしまっている。
「〜〜〜〜ッ耐えてるのよ私。これ私の罪、これが私の罰!!」
 耐える。
 彼女にはそれしか許されていなかった。
「耐えるの……耐えるのよ……エリザベート・バートリー」
 宗教曰く、善行を積めば人は赦され、天上へ行く。
 日本の寓話作家曰く、生きてる内に何か一つでも善い事すれば、地獄にあっても、蜘蛛の糸は降りてくる。
 だが彼女は死んでいるが、まだ生きている。
 だから蜘蛛の糸は望めず、この閉じた世界相手では、善行を積む相手すら与えられない。
 故に彼女はただ耐えるしかない。
 少女を責め、苛み、呪う声に、ただ永久に耐えるしかないのだ……。
 それが罪に与えられた彼女の罰でなのだから……。
「〜〜〜〜うぁ、アアアァン。アァァァアアアアア」
 だから時折、こうして少女は泣いてしまう。
 声を上げ、目を腫らして、堰を切ったように泣き腫らしてしまう。
 それは童女の叫びのようでありながら、だけれど決して『ごめんなさい』とも『もう許して』とも絶対に訴えない、ただ堪え切れないなだけの嘆きだ。
 少女はただ堪えられなかったから泣くのであり、赦しを得る為に泣くのではない。
 泣き、落ち付き、また泣いて、冷静になって、また泣く。
 彼女はこの感情のループを永久に繰り返すのだろう。
 そう考えたら、また堪らなくなって、嘆きが一層喉から溢れた。
 竜の咆哮、その嘆き。
 それは世界を揺らし、(せかい)を震わせ……。
 そして嘆きの咆哮は遂に、天上にあった見えない星の一つを撃ち落とした。
 それは正しく落星(らくせい)。――――流れ星。
 醜いアヒルのように手足をバタつかせ、(てん)から落ちてくる馬鹿者一人。
「えっ…………キャア!!」
 長らく平穏という名の変化のない地獄に、墜落してきた驚きが一つ。
 それは城主の浴場に落下して、盛大な水飛沫を巻き上げる。
「痛ったぁあああああ!?」
「え!?子豚ブタ!?ちょっと、貴方なんで、こんな所に落ちてきてるのよ!?」
「あれ、エリザ?」
 飛び込んできた馬鹿者は、月の裏側で起きた出来事を解決し、世界を救ってしまったあの大馬鹿者だ。
「え、あれ?確か俺は殺生院さんを倒して、扉を潜ろうとした筈なんだけど……あれ?」
 どうしてこんな場所に出てきてしまうのだと、馬鹿は首を傾げる。
「セッショウイン?誰よソレ。て言うか、私の方が分んない!!なんでアンタがここに居るのか、私にも分かるように詳しく説明しなさいよ!!」
「待って、待って。俺も混乱してるから、ちょっと落ち着け。この絶壁(ツルペタ)
 落ちてきた人物の両肩を掴んでガクガクと震わせたエリザベートに、なんというか、慣れた手合いでそれを指摘する、紳士が一人。
「ツル……ペタ……」
 ストーンと落ちた、ロッククライマーでも登れないスベスベとした絶壁に、キズ、シミ、何一つない完璧な(たま)の肌。小鹿のような細い手足に、竜の凶悪な尾っぽを付けて立つ、その姿は改めて指摘するまでもなくZE・N・RAだ。
「イヤァァァァァァアアアアアアアアア!!エッチ!!スケベ!!この強姦魔!!」
「ご、強姦魔!?」
 慌てて湯船に浸かり、タオルで体を隠して背を向け、竜の尻尾でビターン、ビターンと水面を叩き、水飛沫を浴びせかける。

「誤解だエリザ。というか落ちてきたら、そっちが全裸だったんだろ?」
「アーン。見られたー。子ブタに私の全部見られちゃったー。というか、え、何?それじゃぁ私子ブタと結婚(ケコーン)しなくちゃいけないの!?……………そんなのイヤーーー」
「ちょっと待て。どうしていきなり結婚まで話が飛躍する!!」
 イヤイヤと泣き叫ぶエリザベートに、どうしそこまで話が飛躍するのだと、喰って掛る。
「そうよ!!そんなの絶対おかしいわ!!」
「あぁ、その通り!!絶対おかしいよな!!」
 ハタと気づいたエリザベートが、尻尾を犬のように丸めて正面に抱え込みながら、もの凄く熱烈に同意する男の方に身体を向けた。
「だって、私たちまだ手紙のやり取りも、オペラ鑑賞も、一緒に馬車での遠乗りもしていないのよ!?結婚までにしておきたい108の行為を何一つ済ませてないじゃない!!」
「そっち!?ていうか百八式!?」
「それなのに、出会って二秒で即結婚なんて、こんなのあんまりだわーー」
「その往年のパッケージタイトル風に言うのは止めてくれ!!」
「あぁ可哀そうな私。たっぷりと睦言を交わしてあって、雨のようにキスを浴びてからしゆっくりとゆっくりと脱がされ、ベッドに押し倒されてしまうのね。そしてイザという所でカメラの暗転。そしたら場面が切り替わって小鳥たちが鳴いく朝を迎えるの。そしてシそーツに残った情事の痕ッ。モーニングコーヒーを飲みながらアナタは言うの『昨日は最高だったぜエリザベートゥ。君の全てに僕はもうメロメロさ。いや、一目見た時からメロメロだったけれど……』って、イヤーーー!!アナタ私に一体何しちゃう気なのよ!!」
「って、おい!!そこまで恥ずかしい妄想を垂れながしておきながら、拒否するのかよ!!」 二股に分かれた尻尾の先をイジイジと弄りながら、妄想をフルスロットルで垂れ流していたエリザベートであったが、いざその段になると、拒絶反応を示すらしい。
 再び真っ赤に沸騰した顔をイヤイヤと振るとエリザベートに「落ち着け、この恋愛脳(スイーツ)
と強い口調の声が掛る。
恋愛脳(スイーツ)!?」
「とりあえず服を着るんだ。そうじゃないと落ち着いて話ができない」
「そ、そうね着替えてくるわ。――――い、いい。着替え終わるまで、絶対にここにいるのよ。居なくなったり、消えて無くなってたりしたなら、酷い目に合わせるから……」
「はいはい。分かりました」
「いい絶対だからね!!絶対ここにいるのよ!!」
 ジリジリと、後ずさりながら脱衣小屋へと後退する姿に、「消えないよ」と言い聞かせる浴場のお湯に浸ったまま動かない闖入者。
 少女はそのまま青年を視界に納めながら、小屋に辿りつくと、急いでその中に飛び込むのであった。
「さて、どうしたものかな……」
 不安げな表情でエリザベートに命令された通り、浴場の中一歩も動かないまま青年はこれからの自分を、どうしたものかと、少女が衣服を殆どつかっけただけの状態で慌てて現れるまで、考えていた。




※  ※  ※  ※  ※  ※




「それで?どうして子ブタはこんな場所に落ちてきたのよ。もしかしてアンタ。私のマネージャー()に何かしたわけ?」
 つっかけた衣服を整えながら問うエリザベート。その質問に巨大な浴場からようやくでることができた、青年が衣服の水を払いながら答える。
「いや、何も?」
だったらアレから何があったのよ」
「そうか、殺生院やアンデルセンの事も知らないんだね」
「そのセッショウインってのは知らないわ。でもアンデルセンなら知ってるわ。有名な喜劇作家でしょ?」
「悲劇作家な」
「え、嘘?喜劇でしょ。私お腹を抱えて笑ったもの」
「…………」
 …………………チッ。
 いったい少女はアンデルセンの何を読んで喜劇と断じたのか……、青年はエリザベートの名誉の為、追及はしなかった。
 そして青年は彼女が知らなかった事を語りだす。
 エリザベートの助けでサーヴァントの神話礼装を獲得した後の事。
 月の裏側に潜んでいた悪意、その真の黒幕、その存在、そしてその顛末を余さず語って聞かせる。
 そして月の初期化の波から逃れ、誰かの手を取りながら扉から出ようとしたその刹那、青年はふとポケットに入った黒いアイテムフォルダーを気に掛けたのだという。
「そして扉を開けて、気付いたら真っ逆さまという訳です。はい」
「何それ、全然意味が分んない」
「はい。俺にも意味が分かりません」
 タハハと笑う青年。
 それは青年が全く予期していなかった結末だろう。
「ふーん。でも、子ブタ、アナタ私が居なくなった後も私の言いつけ通りちゃんと頑張ったみたいじゃない」
「そうかな?」
「そうよ。だって人類は滅びないんでしょ?だったら私もいつかアイドルとして返り咲ける舞台があるってことじゃない!!よくやったは子ブタ。褒めてあげる」
 そうして上機嫌に、褒めてあげる!!と言って、エリザベートはふっと背を向けるのだった。
「わざわざ報告御苦労さま。暇つぶしにいい話を聞けたわ。さ、アナタには此処から帰る道があるんでしょ?」
「ん?」
「別にいいわよ。そんな大層な嘘なんて付かなくても。どうせ子ブタのことだから、私の事が忘れられなくて、凛に頼んでこの迷宮にダイブしたんでしょ。ホント、誰かの世界に侵入(はい)るのが好きな子ブタね」
「え、いや、だから」
「いいから!!早く出て行きなさいよ!!」
 張り上げられたその声に、青年は言葉を飲み込む。
 エリザベートは拒絶する。
 アナタはこんな場所に居ては駄目だと。
 これ以上此処に居られたら、私はきっと耐えられなくなってしまう。
 一人なら歯を食い縛って耐えられる。でもその歯を、甘い蜜(アナタ)に溶かされてしまったら、自分はただ弱くなってしまう。
 だからこれ以上、ここに居ないで……女はそう流れる涙を隠して拒絶する。
「エリザベート」
「――あっ」
 だが青年は堅牢に張った意地の城壁を、後ろから優しく抱きしめ、甘く溶かす。
「君を気にかけているのは嘘じゃない。そして多分俺は此処から出られない。いや、いつか絶対出るけれど、でもその時は君も一緒に此処を出るんだ」
「嘘よ、――そんなの嘘、アナタ此処に来た理由が分らないって言ったじゃない」
「言ったね……、でも、うん。こういう事をしそうな奴に心当たりはあるんだ」
「何よそれ……」
「今はまだ何も分らなくていい。でもこれだけは分かって欲しい。俺は此処で一人では生きていけない。だから君が必要なんだエリザベート」
 城壁が溶ける。
 強固な意志が崩れ落ちる。
「俺と一緒に生きてくれませんか?」
「―――――――はい」
 頬を染め、軽く見上げ、潤んだ瞳で返事を返す。
 その宣誓の刹那、世界にあらゆる生き物が誕生した。
 欠けていたものが補完され、草木すら、繁殖のために花を咲かせる。
 野には獣が駆け、水には魚、空には鳥が舞った。
 二人で一つのツガイ。
 その手本が示され、空漠な世界に愛情が満ちる。
 こうしてこの閉じた世界は完成され、完成した世界()は大海を漂う。
 いつか浮上するその時を夢見て……。




※  ※  ※  ※  ※  ※  ※




 奔る。奔る。奔る。
 暗い海の中、閉じた箱を目がけて黒い手が伸びる。
『そんな結末など許せるか!!そんな幸福など誰が許してやるものか!!』
 百悲鳴(のろい)。千の伝聞(うわさ)。万の書物(れきし)
 悪意を収集し押し込めた暗い海に、そんな物が黒い呪いの手となって、閉じる箱に向かって伸びる。
 アレを潰せ。アレを呪え。アレを奈落の底に貶めろと。
 だがその箱に伸びる呪手(じゅしゅ)を遮るように、箱から剥がれた一枚の紙が、一人の不遜な少年となって立ちはだかった。『馬鹿か貴様ら!!俺が書いた作品を台無しにすつもりか!!』
 少年の剣幕に呪手(じゅしゅ)が怯んだ。
 その容姿には似つかわしくない、その言動、他者を容赦なく扱き下ろすその態度。
『貴様らの怒りは正しいだろうさ。その呪いは正当だとも。だが何故自分が死ななければならなかったのかも分らない大馬鹿者を、今地獄に引き摺りこんでどうする!!』
『そんなのは生まれて一息もせぬまま、死んだ赤子を地獄に叩き落とす行為と同じだ馬鹿者共め!!』
『アレはようやく、愛のなんたるかを手に入れ始めた小娘だ。愛を知り、愛を獲得し、愛を育んでから地獄に落とせ!!そうでなければアレは地獄のなんたるかを一生理解せんぞ!!』
 黒い手が戸惑う。
 伸ばした手が行き場を失う。
 その手に行く道を示すように言葉が投げられる。
『なに貴様らの呪いは時を超え不滅だ。ならばアレが滅びるまでしばし待て。万象一切悉く滅びるのが世の宿命だ。滅びた後、存分にアレを呪え。煮ても焼いても食えぬ竜の娘だが、下ごしらえはこの“アンデルセン”が引き受けた』
 優しく少年がそう請け合うと、黒の呪手(じゅしゅ)は形を無くし形のない悪意として無散した。
 少年はその消失を見届けると『ハッ、他者を呪う事しかできん亡念共め』と嘲るのだった。そして背後を振り返り、暗黒の海に漂う箱の中身を覗く。
『ハッ、呑気(のんき)惚気(のろけ)ていやがる!!これでは只の小娘だ。角も尻尾もまるで似合っちゃいない』
 少年は笑う。
『かくして魔竜は呪いを解かれ、美しい姫となって王子様と幸せに暮らしましたとさ……』
『ハッハハ。これぞ大団円!!凡作も此処に極まれりだ!!』
『悲劇の無い、未練のない話など、いったい誰の心に残るものかよ』
『キアラの話を凡作に貶めてくれた礼だ。お前に関わる話の一つを凡作に貶めてやったぞ』
 少年はゆっくりと消えゆく身体で大笑いする。
 人間嫌い、厭世家。
 生涯悲劇を書き続け、悲劇だったからこそ人の心に多く残ったアンデルセン。
 殺生院キアラがムーンセルで変体をしている時、彼は一枚だけ破いて持っていた自らの宝具『貴方のための物語(メルヒェン・マイネスレーベンス)』に、青年が再びやってくるまでの間に、ペンでストーリーを描き殴り、その一枚をムーンセル内部へと投じた。
 ムーンセルを制圧したのが殺生院キアラであるなら、そのサーヴァントであるアンデルセンにも未来演算の恩恵は十二分に受けられる。
 人、一人を理想の姿に変えるという彼の宝具は、僅か一ページの走り書きではあったけれど、その一ページは万能の杯へとくべられた。
 ムーンセルは速やかに、書かれたページの草案通りに、青年の写し身、魂を作りだし、青年がポケットに忍ばせていた黒い箱に、殺生院キアラが敗北したら作動する、条件式のトラップを仕掛けたのだ。
『貴様に心残りなどくれてやるかよ』
『精々凡庸で、幸福な人生とやらを過ごすといい』
『後の事は知らん!!俺はもう消える!!』
 そう言って、少年は今度こそ黒い海に消える。
 未来など知らんと言い残した言葉は、あの二人がどうなろうと興味がないと吐き捨てる、これ以上ない親愛の言葉だ。
『後は知らん!!』
 そう言い残した少年は、事実その先を知らない。
 まさか魂を別たれたあの青年の本体が、月の表側で勝者となり、ムーンセルの在り方を変容させてしまうなどと……。
 そして箱は、暗い海から、青い量子の海へと浮上し、それを見つけた誰かが開封した瞬間、中から青年と、いたって普通の美しい少女が現れる未来など……。
 そんな甘ったるい都合のいい大団円。彼は断じて書きはすまい。
 だが否定もしないだろう。
 何故なら物語とは、作家の知らない所で、如何様にも変質するものなのだから。



fin