運命の青
-第十六話-







「お客様、お客様」
「ふぁい!!」
 肩を揺すられ起こされる。
「まもなく着陸致します。シートベルトの着用を御願いできますか?」
「あ、すいません」
 そうして機内スチュワーデスに起こされた青子は、口元を拭ってから膝掛けを取り、シートベルトを締めた。スチュワーデスは青子の頭上にあるランプが点灯したのを確認すると、笑顔を浮かべ頭を下げた。青子もそれに取り繕うような笑みを浮かべ頭を下げた。
 念のためもう一度口元を拭ってみる。……どうやら見苦しい寝顔はしていなかったようだ。
『そっか、もうあれから十年以上経つんだ』
 協会から出された依頼を終え、報告と事後処理手続きをするために倫敦の時計塔へと向かう途中の機内。蒼崎青子は随分と懐かしい夢を見ていたようだった。
 





運命の青、最終話――そして魔法使いは放浪を続ける――






「ウェイバー居る!?」
 怒号と共に勢いよく蹴り飛ばされる扉。
 蹴り飛ばされた扉は、打楽器のような盛大な音を立てて垂直に倒れた。無論扉は楽器ではないのだから、扉が上げた音は、もっと丁寧に扱ってくれという悲鳴に近い。
「――――青子、頼むから部屋の扉はもっと静かに開けてくれ」
 右手で額を押さえながら、部屋の主ウェイバー・ベルベットが頭痛を堪えるように出迎えた。
「ノックをして、返事を待て。ほんの少し待つだけで扉は開くんだ。お前のその短気の所為で、今一体何層の結界が吹っ飛ばされたと思っている。結界を張りなおすこっちの身にもなってくれ」
 ここは倫敦の時計塔内部にある、半ば私室を兼ねたウェイバーの研究室だ。当然ここにはウェイバーの研究成果や例の聖遺物などが隠されている。だから誰かに盗まれたりしないように、研究室には堅牢で複雑な結界が何重にも展開されていた。
 だがこうして青子が彼の元を訪ねる度、結界は無残にも粉々に破壊され、同時にウェイバーの自信も破壊つくされてしまうのであった。まぁ、もしかしたら、次は壊されないで済む結界を張りなさいという、青子なりのメッセージなのかもしれないのだが……。
「ちょっと聞いてよ!?あのお偉方、人の事を態々地球の裏側から呼び出したと思ったら、一時間掛けてネチネチ、ネチネチと損害がどうとか、事後処理がどうとか、延々小言を並べたのよ!!もういっそ全員ぶっ飛ばしてやろうかと思ったわ!!」
 だが語気荒く語る青子を見る限り、そういった類のメッセージ性は隠れていないだろう。彼女は単純に腹に据えかねたから、ウェイバーの研究室の扉を蹴破ったのだ。
 青子は手に持った皮製のビンテージスーツケースを手近な場所に放り投げ、研究室に置かれたソファーに座った。ウェイバーは提出された計画書の精査を諦め立ち上がり、カフェイン摂取目的のインスタントコーヒーを淹れる準備を始めた。
「あー腹の虫が収まらない。こっちはあんた達の依頼で向かったってのに、損害が大きすぎて依頼料は払えないって一体どうゆう事よ!?飛行機代だって安くないのよ?それなのに、連中ときたらわざわざこっちまで召還した癖に、飛行機代までケチるんだから。あぁもう!!いっそ暴れてやろうかしら」
「お前が暴れたら、上にある大英博物館まで被害がでる。そうなれば今度こそ損害賠償は免れないぞ。せっかく上層部が断腸の思いで、お前に請求は回さないと決めたんだ。小言くらい甘んじて受けろ」
 呆れたように呟いて、ウェイバーは青子の前にマグカップに入れたインスタントコーヒーを、書類まみれの机の上に置く。
 青子も青子で、ウェイバーが淹れたコーヒーは苦くてとても飲めたものじゃないと知っているから、机の上を漁って、スティック砂糖を三本見つけ出し、それを全部コーヒーにぶち込んでから口を付けた。
「ふん。どうせ大航海時代にイギリスが植民地から盗み出した物が殆どじゃない。私が壊せば世界中から非難が殺到して、返還運動が盛んになるわよ。テロリストに破壊されるような警備の甘い博物館に、貴重な物は置いて置けないってね」
 青子は飲んだコーヒーに、不味と顔をしかめて舌を出した。
「確かにそうなれば青子の思惑通りになるだろう。それにお前はその特殊な立場上誰も裁けないだろうさ。だけどな青子、お前は自分の激情の為にこの国に国際問題を起こす気なのか?」
「そりゃぁ私だってそこまでする気はないけどさ……」
 拗ねたように、青子はコーヒーをすする。
 魔法使いである蒼崎青子の立場はかなり特殊だ。一応協会には所属しているものの、その立場はフリーランスの魔術師というのが一番近いかもしれない。そして青子は魔術協会が利用できる、最大戦力の一つでもある。たかだか幾つかの歴史的遺物が粉々になったとしても、魔術協会は彼女を庇うだろう。
 しかし、だからといって、その立場を傘に着て、好き勝手暴虐に振る舞う気は青子には無いのだが。
「確かに超大型客船を一つの国に見立て、海流の流れから地脈の流れを吸い上げ続ける死徒の殲滅する依頼は大変だったとは思うさ。あの規模の魔術工房となれば下手な国より防衛力があるしな。だが、だからと言って船ごと沈める事は無いだろう」
「ちょ、別に沈める気はなかったわよ。だけど敵が逃げるし、一々トラップが起動するからつい面倒くさくなっちゃって、その、ね」
「だからつい結界とトラップごとぶち抜いて、船の側面に大穴を空けたと?この大馬鹿者め」
 空母であれば側面に大穴が開いたとしてもまだ沈没はしなかっただろう。だが青子が上空からスカイダイビングをして乗り込んだのは客船だ。側面に大穴があき、船体に亀裂が走ってしまえば沈没するのは自明の理であった。
 魔術師上がりの死徒を抹殺し、船内に残った研究成果を接収するつもりであった魔術協会にとって、船の沈没はそれだけで想定外の痛手だ。
「協会に届いた請求内容は聞かされたか?保険会社と造船会社からの事故究明の要請への圧力。それに伴い製造事実の抹消にかかった経費。救難信号に駆けつけた軍隊への口止め料に、環境被害にかかる賠償。流石に今度ばかりはご老人の誰かが脳溢血で死ぬかと思ったがね」
「何よ、随分詳しいじゃない」
 皮肉げに語るウェイバーに、青子がジトリと三白眼を向ける。
 デスクに寄り掛かかり立っている部屋の主は、自らのマグカップを手に、思わず言葉を詰まらせてしまった。だが時計塔の講師にまで上りつめた魔術師は直に動揺を隠し、手にしたマグカップに口を付けながら「何、ちょっと小耳に挟んだだけだ」と笑った。
 だがその態度に思うところがあったのか、ニヤリと善くない笑みを一瞬浮かべ、気持ち殊勝な態度を心掛けて上目遣いに問うた。
「もしかして弁護してくれたの?」
「ブフッッッ」
 ウェイバーの口から噴き出されるコーヒーの霧。今や時計塔随一の講師と呼び声高い男が、盛大に咳き込みむせている。
「そっか、じゃぁさっき目を通していた書類は私に関する報告書ね」
「あ、こら勝手に人のデスクを漁るな」
 立ち上がり、ウェイバーの背中で隠されたデスクを物色する魔法使いに、それを押し留めようとする時計塔の講師。だがその戦力差は歴然だ。
「いいじゃない別に。隠し事をするような仲じゃないでしょ」
「世間には機密という言葉があるんだ。第一君は好んで私の隠し事暴きたがるから、結果的に隠し事ができなくなっているだけだ!!」
 やいのやいのといいながらデスクを押し合う二人。片方は世界中をアグレッシブに飛び回る魔法使い。片やもう一方は体格に恵まれているものの、時計塔に篭っての講義と研究、そして自室でゲームに明け暮れる魔術師だ。一応男女差を考慮し贔屓目に五分だと評価しても、それ以上に二人は異性であった。
 青子の方は特に注意を払わず、粗雑にウェイバーの体を左手で押し返しながら、右手で書類を検分している。だがウェイバーの方はそうはいかない。なんとか青子の体に触れないように、書類だけを奪い返そうと悪戦苦闘しては、悉く青子の左手に押し返されている。
「どれどれ、請求書の束に、死徒の殲滅を依頼した委員会の名簿。うわ、その下の弟子の数まで調べ上げてあるじゃない。えーそれから、落とし所を模索した走り書きに、こっちは委員会に参加している爺共の弱みね」
「こら、やめろ、見るな!!」
 必死に書類を取り返そうとするウェイバーだったが、本気で取り返そうとすると、青子の体に抱きついてしまいそうで上手くいかない。一応それなりに歳を重ねてはいるのだから、ウェイバーも抱きつく位の事で動揺したりはしないはずだ。だがそれでも、ウェイバーは踏み切れない一線を感じてしまう。
「何よ、口では色々と小言言ってた癖に、随分と私の為に暗躍してくれたみたいじゃない?」
「ふん、別にお前の為じゃないぞ。個人的な利益を追求した結果、蒼崎青子に重い処罰が下るのは都合が悪いという結論に至ったから、手を貸しだだけだ」
 意地悪く問う青子の視線からフイと目を逸らし、両腕を組んであくまで個人的な感情はないと主張するウェイバー。
「全く、そう言う所は可愛くなくなったわよねアンタ」
「なッ!!私は昔からこういう性格だ!!大体それを言うなら、お前こそ昔の方がもう少し周囲というものに対して配慮ができていただろうに。それが今や人間ミサイルランチャーだの、宇宙戦艦だのと物騒なあだ名までつくようになって、今や蒼崎青子が現れたら、その場所にはペンペン草一つ生えなくなるだとか、その破壊振りを魔術師が見たら全員トラウマになるだとか………おぉ?」
 気分良く青子の破壊っぷりをあげつらっていたウェイバーに、青子は背後からそっと忍び寄り、体を寄せ、足を絡ませ、そしてウェイバーの首をそっと抱き……そして一気に後ろへ引き絞った。
「誰がミサイルランチャーかぁ!!」
「イァッタタタタ!!」
 それは完璧で完全に美しい青子のコブラツイストだった。
 背中に触れる着痩せすると評判の、青子の柔らかな胸の感触と、背中を折られているが為に陥る呼吸困難。上半身の前面と後面で作られる天国と地獄に、ウェイバーは全力で青子の太ももの辺りをタップする。ともすれば腿を撫で回しているととられかねない行為であったが、青子は特に意識せずウェイバーを締め上げ続けている。
「折角お礼を言おうと思ったのに、なんでコイツは人が微妙ぉに気にしている事を口にするのかしらね。こう言うときは一々予防線を引かないで、素直に感謝の気持ちを受け取ればいいのよ」
「そ、それで、感謝の気持ちが、この、仕打ちかぁ」
 ぼやきながら、関節技を決める青子に、ウェイバーは必死に声を絞り出す。
「そういう訳じゃないけど……、こう、いざ言うぞと思うとちょっと緊張するって言うか、なんて言うか…………分かるでしょ、そういうの?」
「い、いいから早く、離せ、この馬鹿……」
「ちょ、待ちなさいよ。今からお礼を言うから。―――ん、んん」
 喉を鳴らして、声の調子を調節する青子。
 だがその間もコブラツイストは極まり続けている。ウェイバーの意識は今にも落ちそうであったが、なんとかギリギリの所で意識を保ち続けている。そして早く解放してくれと切実に願っていた。
「え、ええっと、ウェイバー?」
 返事はない。いやウェイバー・ベルベットは返事をできる状況にない。
 それに青子の声はあまりに小さく、関節を決められていなければ聞こえないほどであっただろう。本人にしてみれば、相当恥ずかしいに違いない。だが時計塔の上層部を敵に回してまで、お咎め無しにまで持ち込んでくれたのは、間違いなくウェイバーの手腕に寄るところが大きい。
 だから言葉にして伝えなくてはならない。
 そして十年来の友人に、青子が感謝の気持ちを述べようとした時、「何をやっているんですか、プロフェッサー」と冷静な第三者の声が掛かった。
 悲劇はそこにある。
 青子が扉を蹴飛ばした所為で、えらく開放的になった室内。それは廊下から丸見えという状態であり、そして青子とウェイバーは机の方向、つまり扉があった場所に背を向けて体を寄せ合っていた。
 そして青子は、ウェイバーにコブラツイストを極めたまま、背後から掛かった声につい、思わず振り向いてしまったのだ。
 その時、グキリという音が世界に響いた。
「アーーーー!!」
 次いで、時計塔の随一の人気講師、ウェイバー・ベルベットの絶叫が遥か彼方まで響いたのだった。



※  ※  ※  ※  ※  ※



「それで、プロフェッサー。報告書は読んで頂けましたか?」
 ウェイバーの研究室を訪ねてきた女。その人物の歳は若く、丁度青子がウェイバーと出会った頃と同じ年頃であった。年齢から推察するに時計塔に在学する魔術師だろう。髪の両端を縛り、赤い服に身を包んだ日本人らしき魔術師は、とても利発そうな眼つきをしている。
「目は通させて貰ったが……正気か?確かにあの場所は君が管理する土地なのだから、基本的には自由に扱えるだろう。だがしかし……」
「もう決めた事です。あのままアレを起動させ続ければ、アレはいつか最悪の災害をもたらします」
「だからといって、解体する必要はあるのかね。あれは間違いなく最上級の神秘、英霊を呼び寄せる機能がこの先再現……」
「プロフェッサー!!」
 ウェイバーの言葉を遮って、女の、いや少女の張りのある声が響く。見た目以上に落ち着いて見えていた彼女は、だけど感情をあらわに声を荒げた時、青子の眼にはなんだか少女のように見えたのだ。
「彼女が聞いています。発言はできるだけ慎重に……」
「え、私?」
 少女の視線に、真正面に座る青子が不意をつかれたように驚く。
「いや彼女も参加者だ遠坂。もっとも君とは違って第四次の頃だがね」
「そんな!?」
「え、え、何がよ」
 遠坂と呼ばれた少女が驚いた声をあげる。だが肝心の青子は完全に話しから置いていかれている。
「だって第四次はもう十年以上も前の話しですよ?失礼ですが、とてもそんな歳には見えません」
「まぁ、見かけ通りの歳ではないのは確かだな」
 青子の方をチラリと見て、ウェイバーは嘆息するように言った。十年間成長し続け、身長も髪も伸びたウェイバーとは違い、青子はある時を境にピタリと肉体の成長、いや老化を止めた。だからウェイバーの発言も、遠坂の驚きも共に正しい。
「だ〜か〜ら〜、さっきから一体何の話をしているよアンタたちは」
 青子が床の上でうつ伏せに寝転がっているウェイバーの腰に拳を当て、グリグリと動かした。
「アァアア。痛い、痛い。聖杯戦争だ。聖杯戦争の話し!!」
 堪らずウェイバーが声を上げる。
 彼は青子のコブラツイストの所為で完全に腰を痛め、現在床にうつ伏せで寝ているのだ。そんな講師の横に遠坂と呼ばれた少女は腰を降ろし、先ほどからずっと魔術による治療を施していた。そして加害者の青子も寝転がるウェイバーの横、遠坂の正面に座り、時折彼のわき腹をつついて楽しんでいたのだ。
「君も覚えているだろう。冬木で行われた戦争を。彼女はあそこの管理者だ」
「あぁ、遠坂ね」
 思い出した。思い出した。と手を打つ青子だったが、同時にあの遠坂が使役していた黄金のサーヴァントの姿が思い起こされ、正面に座る少女への警戒感がほんの少しだけ強まった。
 青子にとって、黄金のサーヴァントを巡る陰謀は知る由もなく、あの天敵と呼べるサーヴァントは遠坂が従えるサーヴァントのままなのだ。
「はい遠坂時臣の嫡子、遠坂凛です。失礼ですが、お名前を聞いても?」
 聖杯戦争の参加者。かつ、あの最悪を極めた第四次の生き残りであるという事実に、興味を引かれたのだろう。遠坂の娘は愛想よく問うてきた。
「いいわよ。私の名前は…」
「だからお前は名乗るな!!」
 名乗りかけて、それをウェイバーが止める。
「何よ、もう」
「お前は自分の名前の意味をもう少し考えろ。ただでさえエルメロイ二世は協会の勢力図を書き換えようと画策しているだとか言われているんだ。お前と親交があると学生に知られたら、どんな噂を立てられるか分かったもんじゃない」
 ロードエルメロイ二世が旗を振れば、魔術協会の勢力図は一変する。それは誇張でもなく紛れもない事実だが、彼にその気はない。だがその気はなくとも周囲はその手の噂に慎みがない。他人をプロデュースするのが得意な彼だが、その望みは昔と変わらず、魔術師として大成することである。
 そういった自己の鍛錬において、周囲の雑音というのは、はた迷惑な騒音にしかならない。そして魔法使いと個人的な親交があると知れた場合に巻き起こる噂など、ウェイバーにとって考えたくもない脅威だ。
「えっと、この方はそんなに重要人物なんですか」
 遠坂の娘は平静を装って、講師に問いかける。だがその態度は彼女の近しい人物から見れば、金づるを見つけて慎重に振る舞っている、優等生の仮面を猫かぶりした赤い悪魔と評されるだろう。
「別にそんな大した人間じゃないわよ。ただちょっと珍しいってだけ」
 ウェイバーのわき腹をつつきながら、笑顔で答える青子。つつく度にビクンと跳ねるウェイバーの反応が面白いらしい。
「まぁそういう訳だ。できればコイツの素性は詮索しないでおくんだな。知れば確実に面倒事に巻き込まれるようになるぞ」
「はぁ、分かりました」
 ウェイバーが遠坂に対してこういった類の忠告するのは、非常に稀であったから、少女は一応曖昧に頷いた。だがそれと同時に、実は自分は謀られているのではないだろうか?という疑問が遠坂の内側に湧いてきた。
 ウェイバー・ベルベットという講師が、ロードエルメロイの称号を受けた事から分かるように、アーチボルト家の頭首である女性が彼に執心なのは周知の事実である。無論それはゴシップとしての事実であって、実際そこに恋愛感情があるのかは誰も知らない。
 だがウェイバーの背後に、アーチボルト家の後ろ盾がある事実と、この『女生徒が選ぶ時計塔で一番抱かれたい男』という称号を贈られた講師が、女性との浮いた話を一切流さない辺り、彼はアーチボルトの頭首に対して操立てしているのではないか、というのが生徒間での通説である。
 そしてその噂を、遠坂は知っている。なにしろ自分の後見人を務める人物なのだから。
 だが、もし、もしも、この目の前にいる名乗らない女性が、『女生徒が選ぶ時計塔で一番抱かれたい男』の恋人だとしたらどうだろう?彼女が名乗らないのは、アーチボルト家への隠蔽で、先ほど述べた名乗らない理由は、尤もらしく付けただけではないだろうか、と。
 まぁつまり、遠坂凛、こと赤い悪魔は、ここいらでカマかけをし、あわよくば自らの後見人の弱みを握っておくのも悪くはないかもと考えてしまったのだ。
 だから、彼女は迂闊にも。
「もしかしかして、お二人は恋人同士なんですか?」
 という、世にも恐ろしい質問を繰り出してしまったのだ。
「ゴッフ、ゴッフフ!!うぇふ、フ!!」
 ウェイバー・ベルベットはその言葉で、盛大に咳き込んだ。咳き込めば、腰が痛むだろうに、今の言葉をよほど無かったことにしたいのか、延々咳こんでいる。
 もし遠坂が蒼崎の名前を知っていたら、こんな地雷原に向けてパラシュート無しのスカイダイビングをするような真似はしなかっただろう。その恐ろしさをこの部屋で正しく理解しているのは、腰を痛めて横になっている哀れな講師ただ一人だ。
 こんなことになるならなら、青子の名乗りを止めるような真似はせず素直に名乗らせておけばよかったと後悔している。
「えっと、遠坂さんだっけ?」
「あ、はい」
 にこやかに呼びかける青子と、治療用の魔術をウェイバーの背中に放射しつつ居住いを正す遠坂。その顔に緊張の色は無い。何故なら彼女が握りたいのはウェイバーの弱みであって、青子には何ら悪意は無いのだ。相手に悪意を抱かないのであれば、相手から悪意を抱かれることはそうそう無いと考える遠坂にとって、この時点で青子は敵ではないのだ。
「遠坂さんは好きな男の子とかいる?」
「え、いや、まさか、いませんよ」
 突然の質問に、慌てて否定する遠坂。だがすかさず耳打ちをするように、ウェイバーがぼそりと告げ口をした。
「いや、コイツには日本の冬木から弟子として連れてきた同い年の青年がいる」
「ちょっ!!」
 アイツは違いますと真っ赤になって否定する遠坂に、青子はにこやかに笑って言った。
「そう、じゃぁ次同じ質問をしたら、その子の前で貴女を全裸にひん剥いて吊るすから」
 その宣言に、赤い悪魔が凍りついた。
「あ、はい、すいません」
「いいわよ。私、一度くらいの粗相を責めるほど狭量じゃないわ。うん、一度位見過ごしてあげる」
 そう笑う青子は、だけれど、ウェイバーの腰の辺りをひたすら、ビートを刻むドラマーのように、チョップで連打していた。
 ウェイバーは苦悶の表情を浮かべるが無言で堪えている。そして青子の笑顔には、一体生徒にどんな教育をしているのよ、という怒りがありありと刻まれていた。
 笑顔で背中を叩き続ける青子と、無言でその上から治療を施し続ける遠坂。
 その痛ましい空気に、必死になって、ウェイバーは耐えていた。
 だがそんな世界に、突如天が開けたように声がかかった。
「すいません先生、ここに遠坂来ていますか?」
 壊れて立てかけてあった、ドアを持ち上げて赤毛の少年がヒョコリと顔を覗かせる。
「し、士郎!?」
 慌てた様子で遠坂が振り返った。
「あ、いたいた。なんかルヴィアの奴がずっと探してたぞ……って、何やってるんですか先生」
「いや腰の治療を頼んでいたんだ」
 その時、青子の目が怪しく光った。
「何、彼が例の子?」
「ん、まぁそうだな?」
 逆らえないウェイバーが肯定する。
「え、衛宮くん!!すぐに行くって、一刻も早くルヴィアに伝えてくれないかな。」
「どうしたんだよ遠坂。急にそんなよそよそしく」
「いいから、早く、ね!!」
 慌てる少女に、頭上に疑問符を浮かべる少年。二人の間に何らかの絆があるのは誰の目にも明白だ。
「衛宮?」
 だから遠坂にとって、目の前に座る青子の反応は不可解だった。
 呆然としたような、立ちすくんでしまっているような、まるで十年前に落して諦めていた紛失物が、いきなり目の前に現れて、どんな反応をすればいいのか戸惑っているようなそんな感じ。
 青子は立ち上がって、少年の前に立ち、挨拶をするように問いかけた。
「ねぇ、君。衛宮切嗣は元気?」
「あ、もしかして親父の知り合いですか?」



※  ※  ※  ※  ※  ※



「遠坂は聖杯を解体する気でいるらしい」
 衛宮を名乗る少年が、遠坂を連れだってこの部屋を出てから、ウェイバー・ベルベットはデスクの椅子に座り、葉巻を吹かしながらそう言った。
「御三家の一つ間桐は第五次の聖杯戦争で家督の移動があったらしい。新たな家長も解体を了承済みだそうだ。問題は残る御三家のアインツベルンだが、聖杯が災いを招くようになったのはかの家の落ち度らしい。その事実を追求して、納得させるといっていたが、どうなるかはわからん」
「それで、アンタはその解体作業への協力を求められたってわけ」
「そういうことだ。いつかは破裂すると分かった呪いなら、手をこまねいている暇はない」
 冬木の聖杯に思うことは多々あるだろう。だが彼は一講師、いや偉大なる王に仕える忠臣として、無用で無差別に人を襲う呪いは存在してはならないと決断したのだ。
 たとえ聖杯が、あの大王をもう一度呼び出せるとしても、彼は聖杯を解体すると決めた。
 ウェイバーはもう少年ではなく、一人の大人なのだ。
「分かった。手が必要なら呼んでくれていいわよ。ロハで手伝ってあげる」
「破壊ではなく、解体だぞ?まぁ、手が必要なら呼ぶかもしれんから、その時は宜しく頼む」
「ん、了解。――――――でも、冬木の聖杯がそんな事になっていたなんてね……」
 そういって嘆息する青子の表情は、ウェイバーが今まで見たこともない種類のものだ。
 呆れているのとも、悲しんでいるのとも違う。しいて言うなら疲れた表情……いや徒労の表情というのが一番近い。ぼうっとして、目の焦点が合っていない。まるでここではない何処か別の時間軸を覗いているかのようだ。
「投げ出してもいいんだぞ」
 そんな青子を見て、ウェイバーが突然そんな事を言った。
「ん?」
「だから投げ出してもいいんだ」
 焦点を合わせて、マジマジとウェイバーの顔を見る青子。彼は葉巻をもみ消して視線を逸らしながら言葉を続けた。
「お前が宇宙の熱量死を回避しようとしているのは知っている。幾つか目星を付けた手段もあるだろう。だがそれは本当に、時間を移動してまで成し遂げなくちゃいけない事なのか?」
 そう蒼崎青子にとって、冬木の聖杯というのは、熱量死の未来を回避しうる可能性を秘めていた。無限の魔力でも、魂の物質化でもいい。とにかく宇宙のエネルギー問題を解決できるものであれば、ほんの欠片でも構わなかったのだ。
「発明家と呼ばれる科学者どもが、発明するだけでガイアに対してなんら責任を負わない事をお前は知っているだろう?そして責任を果たそうとしても、彼らの意思は受け継がれることなく、特許利益だけが受け継がれる現状をお前は知っているはずだ。だから……」
「だから、私も投げ出せって?冗談。知っているでしょ、ウェイバー。私、逃げるのが嫌いなのよ」
 ウェイバーの言葉を引き継いで青子が答えた。
 その瞳にはもう爛々とした生気が戻っており、いつもの蒼崎青子がそこに居た。
 そうなってしまえば、ウェイバーにはもう言うべき言葉はない。どれだけ気遣いをしようとも、青子に「大丈夫、心配しすぎよ」と一笑されるのがオチだ。
 だから一つだけ、たった一つだけウェイバーは青子に質問した。
「なぁ青子、お前の主観年齢は幾つになった?」
 魔法使いはその予想だにしていなかった質問に目を丸くし、そして苦笑しながら答えた。
「――女の年齢を聞かないでよ」
 その照れたことを隠す笑みだけがやけに印象的で、ウェイバーの心にいつまでも残っている。
 かつてか、未来か、蒼崎青子はオシリスの砂という存在にこんな言葉を投げかけられた。
『終末に立ち会う事のない放浪者が何用か』
 その言葉を青子は覚えている。
 それは蒼崎青子という存在が歩む人生を、あまりにも端的に表わしている。
 恐らく青子は、ウェイバーが危惧している通り、永久に歩み続ける。
 色々なものを置き去りにしながら……。
「さぁ、ウェイバー今夜は呑むわよ!!聖杯が駄目になっちゃったし、上には小言を言われた!!今日はアンタの奢りで飲み明かす!!」
「待て、待て。私が奢るのか?」
「当然よ。だって依頼がでなかったから、私素寒貧よ。あとついでに当面の生活費と旅費としてお金貸してくれると助かるかも……」
「旅費もないとか、正気か貴様!?」
「うっさい。さ、行くわよウェイバー。いい店紹介しなさいよ。安い店連れてったら、ぶん殴ってやる」
 ウェイバーの首を小脇に抱えながら、引き摺り歩く青子。
 今はまだその表情には微塵の陰りもない。
 だから今はそれでいいとウェイバーは思う。
 いつか自分という存在が蒼崎青子という孤独な魔法使いに忘却されるとしても、今この瞬間彼女が笑えていればそれでいい。
 ただ、願わくば、彼女が歩みを止めて眠りにつくとき、こんな奴がいたなぁと思い起こしてくれるのならば、それは自分の、ウェイバー・ベルベットの初恋に贈る手向けとしては望外の喜びになるだろう。