シキへ福音




「トウコ。まだ黒桐は戻らないのか」
「昨日とまったく同じ台詞を送ろう。連絡は無いわよ、式」
 眼鏡を掛けながら、意地悪く笑ってくる

「そうか」
 ぽすん。と普段コクトーが座っている応接用のソファーに胡坐をかいて座りこむ。
これで今日の予定は全部白紙だ。
と、言うより学校が終わってからする事のない私にとって、幹也の消息を橙子に尋ねるのは、真っ白な一日の予定表に一滴垂らした染みの様な唯一の予定だ。
デパートで購入した五個の林檎。一つを袋から取り出し、手持ちの刃物で剥き始める。

「最近は随分と黒桐くんに依存するようになったじゃない。親からはぐれた子猫みたいよ貴女」
 手元の紙をいじ繰りながら、また橙子の奴が意地悪く笑う
橙子の意地悪い笑みに、自分でも心当たりがあり過ぎて嫌になってくる。
手の中の林檎の皮が繋がったまま剥け、口に合うように六分の一程切り分けてから、種の部分を切り除く。左手には皮の剥けた林檎六分の五。右手にナイフと切り分けた林檎で、胡坐の中心に紙袋と、その中に詰まった林檎を抱えたまま、本日二個目の林檎に無言で齧り付く。
自分でも分かっている。私は昨日も此処に来て、同じ質問を投げかけ、黒桐が普段座っているソファーの上で果物を食べていた。そして一昨日も。
それを今回は四日ほど続けている。
五日前に会ったきり、今度は人探しとやらでまた出かけてしまった。
幹也は別段危険な仕事に携わっているわけでもなく、単純に連絡という面において不精なだけであって、心配するようなことは何も無いのだが、私はここ一ヶ月程、黒桐が仕事で出かける度に、伽藍の洞を訪ねては同じ質問をしているのだ。

「黒桐くんが居ないと分かって不機嫌になるのも相変わらず変わらないし」
 眼鏡を掛けた橙子が機嫌良く笑う。
でも最近の私は自覚できる位に不機嫌で、六分の五の林檎から切り分けた林檎を今度はナイフに一回刺してから口に運んだ。



※  ※  ※  ※  ※  ※



 伽藍の洞と名付けられた不良物件を乱雑と詰まれた紙が擦れる音と、林檎のシャリシャリという小耳良い音が支配する。
流石は伽藍だ音が良く響く。と益体もない無言の時の経過を過ごしていると、耳の奥の方でまた、血が激しく脈動する幻聴が響き始める。
最近、私が不調な理由の一つがこれだ。突然耳の奥で響き始める血の脈動。息を切らした犬みたいに世話しないその音は、たとえ睡眠中であろうとも容赦なく私の中で響き始める。そしてそれに順ずる倦怠感、聴こえ始めた幻聴のせいでまともに睡眠が取れていないせいだ。
健全な精神は健全な肉体に宿るといったか、肉体に溜まる疲労のお陰で私は酷く不機嫌だ。
「―――ったく」
 厄介だ。
「なぁトウコ。耳鳴りがする」
「ん?私には聴こえないわよ」
「っあぁ、そういうことじゃなくて、耳の奥のほうでずっと鳴いてるんだこいつ。まったく、五月蝿くて敵わない」
「何かに取り憑かれたのかしら。貴方は肉体の完成度は一級品なのだからそんな余地は無いと思うのだけれど、どれ」
 区切りが良かったのか、はたまた積み上げられたバベル的な紙の高度に嫌気が差していたのか、橙子は眼鏡を外しながら興味の対象をこちらに移した。
「ん〜どれどれ」
 橙子は裸眼の瞳でしげしげと、私の事を斜め、後ろ、正面、と眺める。
もし橙子が医者で、ただ眺めるだけの行為を診察と称するならば、とんだヤブ医者となるわけだが、生憎とこの女は生来の魔術師だ。一般的な診察と掛け離れた診かたをするだろうし、人形師を名乗るこの魔術師が、はたして人体を医学的に見ているのかすら疑問を感じる。
「…………」
「おい、何か言えよ」
 一回、二回と、観測地点を変えながら、不審そうにこちらを眺めてくる橙子。
ただその眼つきが無言で段々と鋭くなって行くのは気に食わない。
「おい、トウコ」
「式、両手を上に上げてみろ」
「いったい何んだよいきなり」
「いいから、万歳だよ万歳。ほれさっさと両手を上にあげる」
 急かされながら、しょうがなく両手を挙げる。
すると何を思ったか、後ろに回りこんだ橙子がいきなり身体に抱きついてきた。
「うわ、っこの」
 背筋が震え上がる。
背中を駆け、頭の登頂を越え挙げた両腕まで伝わったその震えを、私の身体を拘束する橙子の腕めがけて振り下ろす。
が、あっさりと拘束を解いた橙子の前に腕は宙を切り、行き場を無くした腕は突然見舞われた不幸に再度見舞われないように、自分の身体を抱きかかえ小さくなった。
「これは参ったな。幾ら式が着物を着ているとはいえ、人形師を名乗る私がこの事実に今まで気づけなかったとは。なるほど答えが出てみれば実に単純な式だ、今までの式の行動がそのまま答えに繋がっていくというのだから全く厭になる」
 橙子が独り言を言っているがこっちはそれどころではない。
女に抱きつかれたのだ。不意を突かれて突然に。
魔術や超能的な力を持つ人間が何処かしら人間として壊れているのは厭というほどに思い知らされていたが、まさか橙子がソッチの方向に壊れているとは思わなかった。
「この事実には私に人形師としての廃業を迫っているのか?いや違うなこれは女としての私に突きつけているんだ。あぁ厭になる、全く持って厭だ。確かに女として活動することはここ最近なかったし、私自身こんな経験はしたことが無いのだから仕方がないといえば仕方ないのだが……。いいや之も慰めか。自分で自分の傷を舐めるほど惨めな自慰行為は存在しないからな」
 考えてもみれば地下に置かれた人形は全て女性の形をしていたような気がする。
あぁ、それにしてもだ。橙子がどんな趣味をしてようと私には関係ないことだし、人形相手にどんな行為をしてようと構わない。あぁ、だが本当にその矛先を私に向けることは無いだろう。倒錯した趣味に私まで巻き込まないで欲しい、私はソッチ方面には倒錯してないのだから、同じ方向に傾いた同好の氏を見つけて宜しくやってればいいんだ。
もしくは鮮花あたりと宜しくやっていてくれ。
「さて、と」
 橙子がこちらに向き直る。
真面目な、真剣な目をしている。
まるで隠してきた事実を明かそうとする覚悟したような。
「おめでとう式。ご懐妊だ」
 とんでもない事を聞いた。


※  ※  ※  ※  ※  ※


 橙子の見立てだと妊娠十週目〜十二週目とのことらしい。
『兆候はいくらでもあっただろうに』、と言われたが生憎それと気づけるものはなかった。
振り返ってみて精々が、月経つきものがなくて楽だなと思ったくらいだ。
『それだ、それが耳鳴りの原因だ式。お前の無関心さが耳鳴りを呼んだんだよ』
『お前が聞いているその耳鳴りの正体は赤ん坊の心臓の鼓動だ。まぁ、妊婦が胎児の心音を聞くって言うのはよくある話だが、普通二ヶ月三ヶ月で聞こえるはずはないんだ。だから体が勝手に警鐘を鳴らしたのか、はたまた飛んだり跳ねたりするお前に新しい命がお前に文句でもいったか……まぁそんな所だろ』
橙子はそう言って話を打ち切り、うず高い書類の山に戻っていった。
「それで俺にどうしろって云うんだ……」
 ベッドに前のめりに倒れこむ。
伽藍の洞に居づらくなって部屋に戻ったはいいが何をしたらいいか分からない。
というかご懐妊おめでとう?
私は妊娠したのか……
父親は誰だ?
いやこの身体に触れたのはアイツだけだし……
「うぁ」
 どうしよう。幹也が父親だ。
私が母親で、幹也が父親で、子供がお腹にいて……
「うぅ〜」
 幹也の子供が私の中にいる。
云わなくちゃいけないのか!?
私が!?
幹也に!?
赤ちゃんが出来たって!?
「うぅぅ〜〜」
 ベッドの上でもんどりうつ。
どうしよう?気持ちがグチャグチャだ
アイツは学生の頃からの知り合いで、クラスメイトで、お節介焼きで、詩人みたいな名前をしていて、人が良さそうな顔をして意外と黒くて、無茶なことを平気で考えて、無茶なことを平気でやって、でも優しくて、私を赦さないって言ってくれて……
トットットット
「あぁ、解かった。暴れない、暴れないからその音はよしてくれ」
 耳の奥でなり始めた新しい命が上げる不平に、私は根をあげる。
私とは別の命が私の中にいる。
織のように一蓮托生といったものじゃなくて、もっと別の……縋るようなか細い命。
私の起す行動を是として同じだけの生への責任を分かち合う存在でなく、私という存在に依存してしまう命。
その小さく灯った命の細さが怖くなる。
「――――母親」
 呟いたところで実感は沸かない。
とりあえず身体を余り動かさないようにして、目を閉じてから意織を内に向けてみる。
―――会話はできなかった。
「―――なんか不公平じゃないか?こういうの」
 私ばかりが悩んでいるというのは。
もう一人の当事者を巻き込むべきだ。
「でもそうすると幹也に子供が出来たって話さなくちゃいけないわけで…………」
 ……うぅ
布団を頭から被る。
色々と考えても答えが出ない。
思考が全部行き詰まってしまう。
布団を被って胎児のように丸々ってみたものの、赤ん坊の気持ちが分かるわけでも、答えが出るわけでも、悟りが啓けるわけでもない。
ただ息詰まってしまうだけだった。
溺れてしまったみたいだと思う。
思考もが行き着く岸辺を見つけられないせいというのも在るだろうが、布団に包まっていると本当に息詰まってくる。
だから私は溺れてしまった遭難者のように、海底から空気を求めて海面へ飛び出すように私を布団から「ぷっはぁ」と顔をだした。
「いったいぜんたい君は何をしているんだい?式」
 黒桐の不思議そうな顔が直ぐ目の前にあった。
どうして黒桐が私の部屋にいるのだろう。
仕事は?いつ帰ってきたんだ?どうしてここにいるんだ?
突然の事に目が泳いでしまう。
「大丈夫かい式?本当に様子がへんだよ、君」
 こちらを心配そうに覗きこんでくる視線に、泳いでいた私の視線がぶつかってしまう。
妊娠、父親、幹也の子供、赤ちゃん、私と幹也の子供
それらのことが黒桐の目を見た瞬間に一気に噴出してしまった。
「//////////」
 思わず布団の中に顔を隠してしまう。
きっと式はいま顔を真っ赤にしている。
どうしよう!?黒桐の顔が直視できない!?
「もしかして式怒ってる?連絡しなかったのは悪かったよ。ちょっといろいろと立て込んでてタイミングをのがしちゃったんだよ」
「五月蝿い!!別に怒ってない!!それよりどうしてここに居るんだよ!!」
「ちゃんとチャイムは鳴らしたんだよ?でも君気づいてなかったみたいだからさ、合鍵使ってお邪魔したんだよ」
「そういうことを言ってるんじゃない!!この不法侵入!!なんだよ四日間も連絡寄越さないで、そしたらいきなり帰ってきて、何なんだよお前!?」
「何なんだよって……式、君やっぱり怒ってるじゃないか」
「怒ってない!!」
 どうしよう、俺、今凄く変なこと口走ってる。
「だってそうだろ?いきなり仕事が入ったって言い残していきなり居なくなって、いつ帰って来るんだろうって、橙子の所で待ってみても一向に帰ってこなくて、連絡もなくて、俺が怒ることなんて何一つないじゃないか!!」
 もう無茶苦茶だった。
さっきまで別の事を一生懸命考えていたのに、黒桐の顔を見た瞬間、私の中で怒りと、羞恥と、もうどうにもならない感情が口からあふれ出していた。
どうしよう。
布団に包まり、黒桐の顔もみないで、一人縮こまりながら一生懸命言葉を吐いていた。
どうしようもなく酷い言葉を黒桐に吐いているのに、私が縮こまり怯えているのは黒桐に嫌われたらどうしようっていう、自分勝手なことだった。
でも、そんな自分でも何を言ってるかも分からないのに幹也は……
「ごめん、ちょっと自分で浮かれてたんだ」
 式が泣いてしまうなんて、思っても見なかった。
そういって布団の上から、幹也は私の事を抱きしめてくれて、
私は幹也の優しさに「ふぇ」って蝸牛みたいにゆっくり顔を上げて。
「本当はもっと色々と志向こらして渡したかったんだけど……これ」
 そういって小さな小箱を私に握らせて、中には小さな白く銀色のリングが入っていて
「恥ずかしながら、僕の三か月分の給料です。僕のお嫁さんになって下さい」
「は、えぇ?あ、はい宜しくお願いします」
「あぁ、良かった。断られたらどうしようって、もう直ぐ指輪が買えるって浮かれて式を泣かして断られても仕方ないって考えちゃった」
 幹也の腕がきつく私の事を抱きしめる。
それは君を赦さないと言ってくれたあの日のように……
「あ、え?お嫁さんって、あ、え、お、俺が?お前と?」
「式、女の子が俺、なんて言っちゃ駄目だよ」
「え、えっとじゃぁ式が黒桐と結婚するって事なのか?」
「そうだよ、言ったじゃない。それに返事もちゃんと貰えたしね」
「ちょ、ちょっと待て、あれは気が動転しててだな、思わず口走ったというか、早まったというか……」
「だ〜め。もう返事は貰っちゃったもん」
「お、お前な〜、こういうのってもっと、こう?あるだろう」
「うん。本当はあったんだけどねー、式の泣き顔みていたら今、言わなくちゃって思ったんだ」
「そうか、ごめん」
「いいよ、気にしてない」
「あ、あのな、俺は両儀だから、その、俺は黒桐を名乗れないと思う」
「うん婿入りだね」
「えっと、それから家はヤクザ家みたいなものだから苦労すると思う」
「式と一緒にいられるなら何も問題ないね」
「えっと、それから、それからな?」
「うん、うん」
「あの、俺、妊娠したんだ……」
「ほんと!?」
「あ、あぁお前の子供だ」
「そっかぁ式の赤ちゃんか〜」
「だ、だからお前の子供って言ってるだろう!!」
「うんそうだね、僕と式の子供だ」
「〜〜〜っっ、お、お前」
「名前どうしようか?」
「し、知るか!!一人で考えろ」
 耐え切れなくなって布団に隠れてしまう。
恥ずかしさに耐え切れなくなったことを見破っているのか、黒桐は暢気に「あはは」と笑っている。それが悔しくて、何だか幸せで、私は一層意地になって背中を向けてしまうのだ。
あぁ、織。
ねぇ織。
私はこんなに幸せでいいの?
私だけ幸せになってしまっていいの?
遠く、居なくなってしまった、かつての片割れを思う。
居なくなってしまった織を思う。
「ねぇ、式」
 後ろから幹也に抱きしめられる。
「ありがとう」
 そう、安心したような声で囁かれる。
あぁ私は、式はこんなにも幸せだ。
織が繋いでくれた命のお陰で式はこんなにも幸せだ。
だからそう、これはきっと、織がくれた奇跡のような福音なのだ。







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