聖者の血を杯に
第10話








数コール電子音が響いたのち、回線の繋がった音がする。
「はい、遠野でございます」
 落ち着きはらった声。訊きてによっては余りの感情の無さに戸惑う人も出るだろうが、電話の相手は遠野なのだ。これ位で丁度いいと、いつのことか秋葉が言っていた。
「翡翠?あの、志貴だけど……」
「し、志貴様!?どちらにいらっしゃるのです……あ」
 琥珀さんに代わってと言いたかったのだけど、翡翠の驚きように機を逸らしたようだ。それはどうやら翡翠も同じようでまだ言いたげな事を口に残したまま、受話器を誰かに奪われてしまったみたいだ。
「兄さん!!いったい何処を徘徊しているのですか!?」
「は、徘徊って秋葉」
「有馬の家も乾さんのお宅にもいない。代行者に連絡を取れば、あの無自覚大量破壊女まで行方を暗ましているそうじゃないですか」
 無自覚大量破壊女とは、無論朱い月のことだ。
「いや、あの秋葉?」
「駆け落ちですか!?あの天然無自覚大量殲滅型破壊女と駆け落ちしているんですか!!」
「いっ、いや誤解!誤解だ秋葉!」
「一体何が誤解だと言うんです!手紙一つ残して居なくなるし、あの女も同じようにして行方を晦ませるし……兄さんは一体どれだけ私を心配させるのですかぁ」
 秋葉の語尾が滲む。
堪えているのだ。若くして遠野家当主の座に付いた彼女が、混血のトップに立ち、老獪な混血たちを取りまとめる強さを持った娘が、感情を滲ませ、耐えているのだ。
「ごめん。詳しくは言えないんだけど、駆け落ちとか、そういうのじゃないから…」
手紙一つで消えてしまった駄目な自分を心配してくれる妹に、ただ謝ることしかできなかった。いや、この謝罪は自分の家族を『戦争』に巻き込みたくないという思いが強いから出た言葉のはずだ。
「ごめん」
 そう願い、危険だとわかりきっているのに。
これから『家族』を『戦争』に間接的にせよ巻き込んでしまう。
だから志貴には謝罪しかできなかった。

 そして、口下手な兄を妹は想った。
かつて命を『共有』、いまをもって『共有』する兄妹だ。
血の繋がり、氏の繋がり、それらが馬鹿らしくなるほど根源的に繋がった二人だ。
(兄さん……)
兄は自分の事をこんなにも想っていてくれる。
口下手で、けして鮮やかな回答とは言えない拙い言葉だけれど、こんなにも胸に響いてしまう。
遠野の家名を背負い、へつら笑いの上辺を掬い取っただけの人間たちと折り合いをもたなければならない自分だ。
だからわかるものがある。
だから貴いと感じられる言葉がある。
決して鮮やかではない、断じて流暢ではない。抑揚もなければ風刺だってきいてない。
だから想う。ゆえに想ってしまう。
兄さんの言葉はこんなにも純粋で温かい。
貴い、と。

「それに秋葉を置いていっちゃ、どこにもいけないじゃないか」
 電話ごしに伝わる温かな声、それに自分はどんなに勝手だったのだろう、と気づかされる。
ここ数日間をとってもそうだ。兄さんを失う事への恐れと、同時に行方をくらました人物への嫉妬から、見栄も無く手をつくして探してしまった。
こんなにも兄さんは私の「あと翡翠や琥珀さんだって置いていけない」!?
「やっぱり大切な、大好きな家族だからね。駆け落ちするなら皆一緒にだよ」
 こ、この人はど、どうしていつも、いつも……
「兄さ、っあ」
「あらあら、うれしいこと言ってくれますね〜。志貴さん」
「ちょ、ちょっと琥珀!?」

 受話器の奥、掠め取る音がした。
そして聴こえてくる優しい声、母親みたいな声、琥珀さんの声だ。
実の親、七夜姓の母親を忘れてしまった薄情な俺だが、きっと琥珀さんみたいに仔を寝かしつけるような甘い声で俺を呼んでくれるのだろう。
だから優しいその人に、俺は当たり前の言葉を贈ろう。
三日も離れて離れになってしまった大切な家族に、在り来たりで、当然な言葉を届けよう。
 「うん、絶対に置いてかない。ずっと一緒だ」






※  ※  ※  ※  ※  ※






「うん、絶対に置いていかない。ずっと一緒だ」
「――――――」
 胸が詰まる。
電話の向こう、志貴さんは何でもないことのように、椅子にでも座りながら言ったのだろう。
重い、本当に重い、泣きたくなるような言葉だ。


 双子として生まれたこと、巫淨の血を通わせていたこと、能力を持って生まれたこと。
それが私の人生を決めてしまった。
異能面でなく経済面勢力を拡大していた当時の巫淨にとって、異能の能力は重要視されていなかった。
あの一族は血の探求を止めてしまっていたのだ。
もともと四大退魔の中で力ない一族だった者たちだ。
探求することより今ある資産を増やすことに心血を注ぐようになっていた。
そんな時代の折、私の人生を突き落とす出来事が起きた。
四大退魔の一鶴、七夜の崩壊だ。
退魔最強の一族が混血に滅ぼされたのだ。脆弱な巫淨の力で対抗できる筈もない。
だから一族は率先して、私たちを売った。
本家の血筋とは遠く、双子という厄介な生まれ。
巫淨という旧き血を混血に売ることによって、あの一族は浅ましくも自身の安全を手に入れたのだ。
そして遠野の経済的側面も味方につけた。

 当時の私にそんな周囲の思惑などわかるはずもなく、ただ二人、妹と一緒に知らない家へと連れて行かれた。
両親は私たちを捨てたのだ。
混血の血に悩む遠野の当主に、共有の力を持つ私たちをあてがえば、子どもがどんな目に合うかは火をみるよりあきらかのはず。それを知ってなお……いや、もしかしたら巫淨側から持ちかけたのかもしれない。
双子の共有能力者が居ると、

 あとはそう、ただ流転の人生だった。
遠野に復讐を誓い、七夜の遺児という怨む対象も見つけた。
能面のような笑顔を張り付かせ、取り繕って生きてきた。

だけど、
だけれど、

全部崩壊してしまった。
瓦解してしまった。

混血を欺き、吸血鬼を飼いならした私の計画は、
七夜の血筋、遠野を名乗る一人の男の子の前に見っとも無く崩れてしまったのだ。
地獄の釜の底、十年前のあの日、無邪気に窓を叩く男の子の笑顔の前に私は……

「も、もう志貴さんたら浮気症なんですから。そんなこと言ってると秋葉様が嫉妬しちゃいますよ」
「嫉妬?どうして」
 あぁ、もうこの人は色々とダメだな〜と。
あんなにも判りやすい秋葉様のラブコールを兄妹の情くらいにしか捉えてないのだから。
朴念仁にもほどがありすぎます。
まぁそんなのに惚れちゃっている私はもう、手の施しようがないくらいどうしようもないのかもしれませんが。





※  ※  ※  ※  ※  ※





「それで志貴さんから電話してくるってことは緊急の用ですね」
 事態を探るような琥珀さんの声に、伝えなければいけない事を伝える。
「あまり詳しくは言えないんだけど、協力関係にある人が怪我をしたんだ。それで今、朱い月がその人を抱えてそっちに向かってるはずだから手当てを頼みたいんだ」
「聖杯戦争ですね」
 突き刺さる単語、それに息を呑む。
あり得ない言葉を聞いたからだ。
魔術を持って、サーヴァントを使役する気狂い達の戦争。『聖杯戦争』
そんなものに俺は関わっているのだけれど、琥珀さんにその事を言った覚えはない。
家族に言った覚えは無いのだ。
「い、いやそうじゃなくて怪我を」
 巻き込みたく無い。巻き込んではいけない。
ただそれだけの思いに動かされ言葉を紡ぐ。
「下手ですね〜志貴さん。そこは『聖杯戦争って何?』とか『何言ってるの?』って訊き返さないとバレバレですよ?」
「…………」
「秋葉様は聖杯戦争の事をご存知です。が、志貴さんが参加してることはしりません。」
 当てにしてはいけなかった。するべきではなかった。
遠野の情報力は冬木で行われている戦争を知っていた。関わらないだけで知っていたのだ。
聖杯戦争は集団としての遠野に利益をもたらさない。
下手に介入をすれば、遠野という集団が瓦解する恐れがある。
混血として退魔に敵対する遠野。
魔術協会、聖堂教会。国外に拠点を数多もつそれらと敵対する可能性を孕んだ戦争。
そんな物に集団としての遠野が参加できる筈がなかったのだ。
すれば怨まれる。参加すれば口実を与えてしまう。
どんな些細な事でも些末なことでも、遠野は聖杯戦争に関わるべきではなかったのだ。
「――――ごめん」
 無断で家を飛び出してしまった事、形はどうあれ嘘を付いてしまったこと。
そして遠野の長男が戦争に関わってしまっていること。
だから、
「ごめん、明後日には帰るよ」
 終わらせよう。
願いは地に落ちた。
俺自身の願いは家族の安全と同じ天秤に乗せられるほど、価値はなく。
朱い月は払われる報酬は気に入らないらしい。
ならば帰るべきだ。俺が関わった全ての痕跡を抹消して、日常へ帰還するべきだ。
何処か遠い国の出来事のように冬木を静観し、安穏と平穏に浸りながら、事の顛末だけ聞き齧ればいい。
最早、俺と朱い月を縛るルールは無い、冷酷な計算式のもと、一切の躊躇なく俺は帰還を果たす。
だから、
「帰ってこないで下さい」
 受話器から響く声が変わる
「……秋葉」
 恐らくこの電話は屋敷にいる全員に聴こえるよう琥珀さんに取り計らわれているのだろう。
「話は全部聞かせて頂きました。兄さん、冬木の町には確かに願望を叶える聖杯と呼ばれるものがあります。それを探しに出かけたんですね、託す願いがあるから帰ってこないのですね」
 電話を流れる声は落ち着いていて、冷静に語られているように聴こえる。
だが志貴にはまるで泣き声のように聞こえていた。
それは兄の願いを叶えてやれない無力な妹の悲しみの声だから。
「翡翠は良く兄さんをみています。朝、眠りから覚める間際の兄さんの表情をあの子は良く知っているんです。知っていますか兄さん?翡翠に朝の兄さん様子を尋ねると、可愛らしい表現を重ねて詩人のような言い回しで、兄さんのことを語るんですよ?」
「それは恥ずかしいな」
「そんな翡翠が言うのです。兄さんの視界はきっと私たちと違うと、最近それが顕著だと」
「まいったな」
 隠し通したいことがあった。
でもそれは隠し切れなかったらしい。
「率直に言います。兄さんの魔眼は、封印の度を越えましたね」
「本当にまいった。やっぱり秋葉たちに隠し事はできない」
 いつからだったか、感情の起伏、月の満ち欠け、騒がしい夜。
魔眼殺しを越えて目に映るものがあった。
完全に殺しきれなくなった風景に、意識が少しだけかしいでくのが理解できた。
まるで自分の終わりを幻視したみたいだった。
それがいつになるかは分からない。
明日か、一年先か、十年か。
それでも壊れ始めた風景に、自分の意識は引きずられ、少しずつ噛み合わなくなる生と死に、狂って行く未来を確かに予感した。
それを誰かに吐いたことはない。朱い月がそうだろう?と指摘して、否定しなったことが唯一だ。
「―――遠野として方々ほうぼうに手段を探しました。ですが兄さんが掛けていらっしゃる眼鏡以上の物はなく、最後に託すものがあるとすれば聖杯です。それすらも、周期的に発現するのみで、機会は無いものだと考えていました。だから‥‥」
「だから?」
「―――だから、運命的ではないですか。およそ五十年周期で現れるとされた聖杯が、何の因果か、過去に何が起きたのか、前回の聖杯戦争より僅か十年足らずで現れた。そして兄さんはそれに曲がりなりにも参加しているのでしょう。実に運命的です。兄さんが必要としたときに聖杯が現れた。――運命なんです」
 覚悟は決めていた。
いや決意と言おう。
遠野と俺に関わる大切な人を巻き込まない決意をしていた。
俺と朱い月の戦争だと意気込んでいた部分があった。
家族に危害が及ぶ可能性があれば直ぐにでも三咲町にとって返す選択肢を用意していた。
圧倒的な、他を蹂躙する圧倒的な切り札ジョーカーで屋敷に帰る手筈だった。
それを今、俺の意思で抹消する。
俺は帰らない。
願いを叶えて屋敷に帰る。
涙声で運命だと言ってくれた妹に、裸眼の瞳でその目を覗き、ただいまと晴れやかに言おう。
「兄さん。私は、ただ、只、兄さんの無事を願います」
「ありがとう秋葉。必ず帰るよ」
 受話器を置く。
吹っ切れていた。
爺さんが定めたルールは守ろう。
だが手段は選ばない。
奇襲、奇術、鬼謀
あらゆるはかりごとで勝利を攫おう。
それが俺の聖杯戦争なのだから。







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